論集『9.11と9条』— 2006年11月


黒煙のなかで

作家で平和活動家の小田実との対話[パート2]

ペルソナ・ノン・グラタ
数年後、合州国はベトナムで敗北し、各地のべ平連は解散したが、小田は彼自身のやり方でベトナム人の支援を続けた。彼は執筆も続け、著作を多数出し、そこで論ずる問題には東側・西側のいずれにもある人権問題が含まれていた。普通人の声の代表という彼の評判が先行したことは、彼が旅する世界のどの国でも、〔当局の〕疑惑を高めることになった —— とりわけ、自由と民主主義の国でそうだった。

———私の理解では、ベトナム戦争時代にあなたは米国政府のブラックリストに載っていた。これは本当ですか。

いまでも[米国への旅行は]大変むずかしい。共産党員は合州国へ行けるが、私は行けない。あなたの国では私が[入国するのに]多くの困難がある。じつにたくさんの困難だ。

ベトナム戦争中、憂慮するアジア学者委員会(CCAS)から講演旅行に招待された。私はOKと承知したが、私のビザ申請を東京のアメリカ大使館が拒否した。当時、私は東京に住んでいた。アメリカ大使館は私に、大使館に来るように、出頭するようにと言ってきた。私は「ノー。あなたが来たらどうか」と言った。彼らは来なかった。私のビザは拒否された。最終的には、多くの人びと、アメリカ人学者たちが最善を尽くそうと、アメリカ大使館と交渉した。三週間後にビザが出た。

そのあと、これには面白い話がある。私はサンフランシスコに行った。私はワシントンDCで講演する約束があった。当時、佐藤[栄作首相]がニクソンと沖縄の交渉をするためにワシントンDCに来ていた。そこで、私はサンフランシスコに着いた。係官はパスポートを見るとこういった。「どうぞこちらに来て下さい」—— 私にとっては、いつもの、決まりきった応対だった。多くの場所で、多くの国でそうだ。私は小部屋に通された。そこの係官は言った。「あなたが入国できるかどうか、我われには決められない」と。「ここにはビザがある」と私が言うと、彼はこう言った。「ビザとは別の問題だ。ビザは国務省が発行する。この部局は入国管理局だ。だから我われには決められない。」彼は私に言った。「ワシントンDCに行ってくれ。」私はワシントンDCで演説する約束があったので、これは私にとって問題なかった。私はワシントンDCに行き、演説した。そのあと、ワシントンDCの入国管理局への出頭を求められた。

ここからが面白い。私はアメリカ人弁護士と一緒に行った。そこの係官 —— 私の考えではきわめて高位の人物 —— が私に質問した。「あなたが来たのは、この国で非合法活動を扇動するためか。」私は答えた。「もちろん、そうではない。私は憂慮するアジア学者委員会に招かれて来た。私は講演旅行で、ハーヴァード大学や多くの大学をまわる。」アメリカ人弁護士が同席していたが、彼は私に言った。「それが誓えるか。」「誓うことは簡単だ。それが事実だから。私は誓う」と私は答えた。すると、彼は私のスケジュールを尋ねた。私はスケジュールを伝えた。それから私は彼に —— 大変面白い、まるで禅問答のような話だが ——「いま、私はアメリカ合州国にいる」と言ったのだが、彼は「ノー。いない」と言った。なんて面白いんだ!「ノー、あなたはアメリカ合州国にいない」とは。私は言った。「ここはアメリカ合州国の一部だ。私はここにいる。これを論理的に言えば、私はアメリカ合州国にいるを意味する。」しかし、彼は「ノー」と言った。五分か一〇分、「ノー = イエス」のばかばかしい議論があった。とうとう、私の弁護士が言った。「こんなばかばかしい議論はやめよう。」

それから、係官は私のパスポートに一枚の小さい紙片をくっつけた。講演旅行後、私はアメリカを出国するためにサンフランシスコに行った。そしてそこの係官がその紙片を取りはずした。それで終わりだった。彼らは私の入国スタンプも出国スタンプも押さなかった。私はそこに存在しなかった。これは私がアメリカ合州国にいなかったことを意味する。私はそこにいたが、アメリカ合州国にはいなかった!社会主義国のようだ。

ある日、かなり昔のことだが、スミソニアン博物館からワシントンDCで行われるシンポジウムに参加してほしいと招待された。スミソニアン博物館からの招待で合州国に行くのはいい考えだと思った。大阪の合州国領事館に行き、〔私の申請書類を〕提出した。数分後、「小田さん、こちらに来て下さいませんか」と言われた。私にとって、いつもの、決まりきった応対だった。私は小部屋に行った。副領事と思われる人物がこういった。

「これはどういうことですか。あなたが合州国に行かれることについてですが」と。いくつかの困難があったのだ。私は彼に言った。「あなた方、あなたの政府次第だ。〔困難は〕おそらく、私がベトナム反戦運動に参加したからだろう。」すると、領事がこう言った。「私も〔反戦運動に〕参加しました」と(笑)。大変面白い。彼とは友人になった。彼は西宮に住んでいた。いまはどこかの大使になっていると思う。彼は文学ファンで、小説も書いている。

[別のとき]ニューヨークで{ルビ始 マイノリティ}少数者{ルビ終}の権利についての会議があった。私は招待されたが[米国に]もう行きたくなかった。しかし、是非来てくれというので、[他の日本人観光客と同じように]ビザなしで行くことに決めた。それから、よくあるように、彼らはリストをチェックした —— 私はたぶん「好ましくない外国人なのだろう —— 彼らは「立て!」というようなことを言い、[ボディ・チェックのあいだ]すべてを精査した。私は怒った。「帰りたい」というと、「帰ることはできない。あなたはまだこの国に入国していないのだから」と彼らは言った(笑)。彼らは私の名刺を取り上げ、すべてを精査した。彼らは[私が持っていた]ラムゼイ・クラーク
(注5)の名刺を見つけ出した。ポケットに白い粉かなにかをいれられるのではないかと、私は考えた。彼らには、人知れずそれができるのだからね。

一、二時間後、私は放免になった。私はニューヨークの会議に出かけた。私は私の体験を聴衆 —— 少数者の人びと、黒人、プエルトリコ人などが多数いた —— に語った。彼らが言うには、「そんなことはありふれている。私たちはそんなことを毎日経験している」!(笑)それ以後、私が入官の係官にパスポートを見せると、彼らは私の顔をじっとみる。入官のコンピューターになにか入っているのだ。そこになにか書かれている。

———いまもあなたは米国政府のリストに入っています。

たぶんそうだろう。真相は不明だがね。

———最近、そんなことがどんどん起きています。

そう思う。私はもう合州国に行きたくないね。多くの国で、私はペルソナ・ノン・グラタ(好ましからざる人物)だ。たとえば、タイで、マレーシアで、シンガポールで。タイ、マレーシア、シンガポールの人権問題について私はたくさん書いた。私は彼らにとって「騒がしい」人間になった。私はアジア人会議を組織し、第一回を[日本で]、第二回をバンコクで開いた。私がバンコクに行ったとき、私は入官で足止めされた。そして日本航空の係員がやって来て言った。「あなたの場合、何か問題があります」と。彼らはタイ語で論じていた。私は[左翼の]日本赤軍の疑いのある人物だった。彼らは私に警官を尾行させることに決めた。タイはそういう国だ。どこであれ、このような国は恐ろしい。その一つが合州国であるのは残念だ。

———それが真実です。状況は悪化しています。

自由な国はもうどこにもない。

玉砕
一九九八年に小田が書いた『玉砕』という小説(注6)は、多くの意味で、彼の一生の仕事を明確にするのに役に立つ。日本語でいう「玉砕」は、大まかにいえば、一種の名誉の敗北を意味している。玉砕の直訳は「宝石を砕くこと」である —— この場合、「宝石」は日本の天皇であり、神道では現人神とされていた天皇の栄光のため、一般国民が集団的に死ぬという行為が「砕くこと」である。

小田はこれまで長い間、日本の天皇は現人神ではなく、他の人間と同じ普通の人間だと主張してきた —— しかし、このような世論を押さえこむために、「天皇の栄光」を守ると自称するカルト的な超右翼がいまなお物理的な脅迫手段と暗殺にさえ訴えようとしている社会では、これはきわめて危険な立場である。小田はさらに、戦後、先代のヒロヒト天皇は命をアメリカに助けられたが、彼は他の一般国民や第二次世界大戦中の日本の植民地主義的攻勢のなかで天皇の名前において死んだ日本兵と同じように、死ぬべきだったとまで述べている。

彼の小説『玉砕』の焦点は、南太平洋の小島を警備している架空の日本軍の兵士の最後の日々にあてられている。彼らは戦争終結も近いころ、この地域〔の日本軍〕を厖大な物量で一掃していたアメリカ軍に抗して、遙か遠くにいる天皇の栄光のため、最後の抵抗をする覚悟でいた。二〇〇三年、『玉砕』は英語に訳され、『The Breaking Jewel』という表題で出版された
(注7)

———小田さんにこの本を書かせたもの、小田さんに霊感をあたえたもの、それは何ですか。

小国が大国と戦う場合、小国が使う戦術や戦略は二つか三つである。一つは真珠湾攻撃のような奇襲攻撃だ。戦争が長引いてくると、勝利はもう不可能になる。そこで彼らは{傍点始}特攻{傍点終}攻撃、あるいは{傍点始}玉砕{傍点終}攻撃のような自殺攻撃をとらざるを得ない。平時の観点から見れば、この行為はもちろん狂っている。しかし、彼らはこのような行為、このような自殺攻撃、{傍点始}特攻{傍点終}、{傍点始}玉砕{傍点終}を敢行する。ある意味で、彼らは狂っている、正気ではない、酔っぱらっている、と見えるかもしれない。もちろん、アメリカ側は当時、これを愚かな行為だと考えた。私は多くの本を読み、当時のアメリカ軍兵士の反応を知った。

こうして[日本軍兵士は]戦い始めた。彼らは自分たちが論理的であり、狂っていないことを知っていた。小国が合州国のような大国と戦うとすれば、これはある種の論理的結論だ。戦争が終わってから、私は残虐行為、破壊、殺戮など、戦争の経験を一つずつ思い起こし、考え始めた。当時、もしも狂っていなくて正常な人間であるなら、私たち日本人にとって唯一の道は自分を犠牲にすることだった。そして私たちには論理があてがわれていた —— それは、私たちは天皇のために死ななければならない、だった。私たちはこの戦争に勝たなければならなかった。そして、太平洋戦争には多くの種類の正当化[が行われた]—— アジアの抑圧された民族の解放という口実のもとで、私たちはこの戦争を{傍点始}大東亜戦争{傍点終}と呼び、太平洋戦争とは呼ばなかった。「我われは英米のような大国と戦わねばならない」というような口実が使われた。

ある程度まで、これは論理的に正当化される。これが現実の歴史だからだ。西洋の列強はアジアに侵略し、アジアの民族を植民地化した。だから、日本はアジアの民族を解放するため、このような卑劣な西洋列強と戦わなければならない。ある意味で、この一点はきわめて論理的だ。しかし同時に、もちろん、日本は自分自身の歴史を隠蔽し始めた。台湾の植民地化、朝鮮[の併合]。彼らはこれについては口をつぐんだ。

いずれにせよ、大東亜戦争を正当化するものとして、彼らはこの種の口実のもとで大国と戦争を始めた。ついには、終わりが来た。小国の私たちは[大]国にたいして、このような種類の戦術、つまり自殺攻撃、{傍点始}玉砕{傍点終}を使わざるを得なかった。このような種類の原理を信ずるなら、ある意味で、これはきわめて論理的な結論だ。わかるだろうか。戦後、私は考え始めた。私が考えたのは、戦争が終わったとき私は一三歳だったが、もしも私の実年齢がもっと高かったなら —— 一六歳か一七歳だったなら ——、私は自殺攻撃に参加したかもしれない、ということだった。戦時の状況は多岐にわたる —— 正当化もあり、宣伝もある。二つが混じることもある。

そこで、私は自殺攻撃について考え始めた。長い年月の熟考があったが、そのすえに、私は私自身の意味での玉砕攻撃を書かなければならないと考えた。調査のため、南太平洋の玉砕の島々を次々訪れた。勉強した。ほんとうの現場を見始めた。そうしたあとで、私はこれを書かなければならないと考えた。

米国の広島原爆投下六〇周年の二〇〇五年八月六日、英国放送協会(BBC)は小田の小説『玉砕』の英語版を「Gyokusai: The Breaking Jewel」をという傑出したラジオドラマにして世界中に放送した。次の一節は、この日、BBCがラジオドラマとともに放送した小田とのインタビューの抜粋である(注8)
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BBC——彼らはなぜ自爆攻撃で死ぬ覚悟だったのですか。

小田実——彼らは天皇のために死んだ。大日本帝国の栄光のために死んだ。ところが、天皇は戦後生き延びた。はなはだ奇妙だ。天皇は兵隊らとともに、「玉砕」攻撃した兵隊らとともに死ぬべきだった。しかし、天皇はそのまま無傷で生き延びた。戦後のいま、彼はある種の平和のシンボルと考えられている。なかには、このような「玉砕」攻撃の論理と倫理に大きな疑問をもち始めた人びともいた。私もその一人だった。そうするうちに、「玉砕」攻撃で無駄死にした兵隊たちへの私の共感はますます強くなり、それが私に小説を書かせた。この『玉砕』はそういう小説だ。

BBC——小田さん、ドラマの終わりに登場する女性は愛を語ります。奇妙ではありませんか。これは戦争と平和をめぐるドラマでしょう?

小田実——この絶望的な状況での唯一の慰めは愛だ。男と女の愛、きわめて自然な愛こそが慰めである。登場した女性は愛のシンボルだ。世界の全体に多くの戦争がある。山積した矛盾や問題がある。相互の闘争がある。そのなかで、唯一の慰め、唯一の希望は愛である。私たちにとって愛こそが慰めであり、希望だ。

BBC——「玉砕」攻撃についてお聞きしますが、今でも日本人はそのような自爆攻撃をするでしょうか。

小田実——二〇年前にそう聞かれたら、そんなことはないと私は答えただろう。しかし、現在は状況が変わった。国家主義、国家主義的感情、そういう宣伝、そういう教育が行われている。だから、その質問にそれほど断定的には答えられない。

BBC——六〇年前の広島への原爆投下について、あなたはいまその行為をどう考えていますか。

小田実——ヒロシマ、ナガサキ以後、その類いの質問がつねに問われている。おそらく、私たちはその犯罪を許せるかもしれないが、その犯罪の責任は許せない。犯罪を犯すのは人間だ。まず最初に理解しなければならないのは、アメリカ人はなぜ広島と長崎の上空で原爆を投下したのか、その理由である。どんな方法で、どんな理由だったのか、私は理解しようとつとめた。なぜアメリカ人はそんなことをしたのかという状況を理解し、そのうえではじめて、原爆を投下した彼らの責任は許せない。それが私の考え方だ。

BBC——あなたは著名な平和活動家で、長年にわたって活動されてきましたね。

小田実——私は市民として、こんにちの世界よりも少しはましな世界をつくらなければならないと活動しているだけだ。私は七三歳だ。しかし私はまだまだ非常に若いと考えている。変革すべき世界はまだまだ若いのだから。
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私はBBCのインタビューのなかで、とりわけ論議の的になると思われる部分について質問した。

———天皇自身は生き続けているのに、兵隊は天皇のために死ななければならなかったとあなたはBBCにコメントされました。私はそのコメントに関心があります。

あまりに悲劇的ではないかね。彼らは天皇を信じていた。彼らは大日本帝国の栄光のために死んだ。しかし、天皇は安全なまま、無傷のまま残った。彼は戦争犯罪裁判、戦争犯罪軍事裁判にまったくかけられなかった。そして平和の象徴として尊敬され始めた。もちろん、私は怒った。兵士たちは、彼らは、まったく惨めな死をとげた。彼らを見捨てたのは英米ではない —— 彼ら自身の天皇が彼らを見捨てた。もちろん、私は天皇制に反対して闘っている(笑)。

———天皇は彼らとともに死ぬべきだとあなたは言われました。

そうだ。そう考えている。少なくとも[死という]退位だ。天皇は退位すべきだった。

———当時は天皇への献身。いまはアイコクシン。

その通りだ。「国への献身」だ。なかには、国の中心は天皇でなければならないという人もいる。

パート3へ続く

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注:
(5)アメリカの法律家、政治家。ジョンソン大統領のもとで司法長官を務めたが、退官後は運動家に転身した。
(6)小田実『玉砕』、新潮社、一九九八年。この小説は、小田実、ティナ・ペプラー、ドナルド・キーン著『玉砕/Gyokusai』(岩波書店、二〇〇六年)のなかに再録されている。
(7)Makoto Oda,『The Breaking Jewel』, translated by Donald Keene, Columbia University Press, 2003.
(8)ティナ・ペプラーの脚本にもとづいたラジオドラマ「Gyokusai」は、BBCが「ヒロシマ・デー」と呼ぶこの日、BBCワールドサービスを通じて全世界に放送された。小田実、ティナ・ペプラー、ドナルド・キーン著『玉砕/Gyokusai』(岩波書店、二〇〇六年)のなかにこの脚本の日本語訳が収録されている。


( © 小田実 2006)