ニューヨークで悲劇の死を遂げた写真家を家族と友人が回想
(Family, Friends Recall Photographer Killed in Bizarre New York Accident)


ブライアン・コバート
現地特派員

京都 —— 相見家にとって、1991年はニューヨーク、ジャズ、そしてブルックリン橋で起きた、愛する人の衝撃的な死という苦い思いがこみ上げてくる年となった。

ニューヨーク・タイムズ紙が「奇妙」「悲劇」と報じたこの事故で、京都出身の写真家、相見明さん(32歳)が命を落としてから今年で10年となった。相見さんはその有望な将来を、有名な橋の欠陥ケーブルによって絶たれた。

母である小説家の相見とし子さんは、「明は作品を通して、日本とアメリカの文化的な『架け橋』になろうとしました。」と涙ながらに語った。「しかし、その夢を叶えることができませんでした。結局、アメリカに潰されてしまったのです。」

事故が起きたのは1981年6月28日、風の強い日だった。 相見明さんは、撮影場所の下見のために、レキシントン・アベニューの56丁目付近にある写真スタジオを後にした。

ニューヨークに住んで2年が経ち、彼はこの街に慣れ親しんでいた。そんなある日の午後5時頃、彼はブルックリン橋を散策していたが、写真を撮るにはまだ日光が明るすぎたので、少し暗くなるのを待とうと思った。

相見さんはコーヒーショップからマンハッタンのスタジオに電話をかけ「今、ブルックリンにいるから、すぐに戻るよ」と伝えた。 それが、彼からの最後の連絡となった。

橋を渡ってマンハッタン側に出ようとしたとき、突然、長さ180メートル、太さ5センチのワイヤーケーブル2本が切れて、歩道に激しく打ちつけた。1本のケーブルは木製の歩道の板を何十枚も打ち破り、 もう一方のケーブルは、後ろから相見さんを叩き潰した。

目撃者の一人がニューヨーク・タイムズ紙に次のように語った。「重い音がした」「振り向くと、ケーブルが揺れていて、男性(相見)が地面に倒れていた。 男性は血だまりの中に横たわっていた」。

斜張ケーブルの力で、相見さんの頭蓋骨は砕かれ、左腕は骨折した。彼はセント・ビンセント病院に搬送されたが、非常に重篤な状態で、まもなく昏睡状態に陥った。

相見さんの家族は京都からニューヨークに駆けつけた。

「病院にいる息子を見たとき、回復の見込みはないと思いました」と、相見とし子さんは涙で目を真っ赤にし、声を詰まらせた。 「医者には、たとえ生きていても一生、植物状態だろうと言われました。」

明さんはその1週間後の7月6日に亡くなった。

調査員によれば、原因は鳩の糞による酸が100年に渡ってケーブルを腐食し続けたことだった。

相見さんの妻でファッションデザイナーのマリコさんは、事故から数日後に弁護士を雇い、市に対して5000万ドルの損害賠償請求訴訟を起こした

訴訟外で和解交渉が行われていたため、この訴訟は1988年になって和解により終結した。マリコさんと相見家にそれぞれ約1500万円の賠償金が支払われた。

しかし、お金や時間が心の傷が癒してくれるわけではない。ブルックリン橋のたもとに息子の名前を刻んだプレートを設置したい、という母の強い願いは聞き入れられず、とし子さんは辛い思いを抱えたままである。

「私はただ、アメリカの人たちに、私たちはみんな同じ人間であり、息子の名前が橋に刻まれるのを見たいという思いを理解してもらいたいだけなのです。」と語った。「それが実現すれば、私に不満はありません。」

明さんの弟で東京で都市計画に携わっている相見潤さんは、兄が愛した2つのもの―写真とジャズ―を守りたいと考えていた。

彼は兄の作品を写真集『Whisper Not』として出版した。このタイトルは明さんが好きだった1957年のベニー・ゴルソンのジャズの曲にちなんだものだ。

この写真集には明さんが撮影した世界的に著名なミュージシャンの写真が掲載されている。ジャズ・サックス奏者の渡辺貞夫、トランペット奏者の日野皓正、キーボード奏者のハービー・ハンコック、レゲエ界の伝説的存在であるボブ・マーリー、ブルースギタリストのB・B・キングなどだ。

友人や家族は、亡くなった相見さんはどこまでも寛大で、ジャズ業界内外で好かれていたと語っている。

彼の死後、ニューヨークのある友人が、京都の相見家に次のように手紙を書いてきた。「今にして思えば、明は私にとって兄弟のような存在でした。 彼は純粋な人でした。 私は明を、そして彼に対する恩を決して忘れません。」

そして「私の悲しみは大きいです」と手紙は続く。「(しかし)悲しみは、私に善をなすことを思い出させてくれます。 明は、私たちが生きていく上での良いお手本です。 ニューヨークの多くの人々が、彼を心から恋しがっています。」

息子の死から10年が経った今、相見とし子さんは、息子の死への関心を呼び起こし、記念プレートの設置を推し進めるために、今年、記念の集いを計画している。

集いにふさわしい場所は、六本木にある明さんの写真スタジオ「Whisper Not」だと、彼女は考えている。その写真館は今でも明さんの元パートナーが経営しているものだ。

相見さんの作品がいつまでも人の心に残ることはもちろんだが、彼の人生に影響を与えたジャズの名曲「Whisper Not」の歌詞が、彼の早すぎる死を象徴しているようにも思える。

そっと歌って でもはっきりと
優しい言葉で私の耳元に囁いて
嘆きの歌ではなく 愛の祈りを
歌を続けて 一度は消えた愛の
ときめく調べが戻ってくるまで・・・