儀式への回帰 〜アメリカン・インディアンのリーダー デニス・バンクスが語る [パート1]
(RETURNING TO CEREMONY — American Indian Leader Dennis Banks Speaks)


聞き手 ブライアン・コバート

何千年もの間、ネイティブ・アメリカンにとって空は父であり、大地は万物の母であった。アメリカン・インディアンの創造主である、偉大なる神秘から見れば、全ての物はこの地球に存在する不可侵の権利をもって生まれているとされてきた。現代でアメリカン・インディアンのその根本的な権利のために闘ってきた人物を挙げるとすれば、それは「 [宇宙の] 中心に立つ人物」、ナワ カミックだろう。彼はまたデニス・バンクスという名前で世界中に知られている。

彼の人生はアメリカン・インディアンの歴史の簡略版のようだ。バンクスは1937年4月12日にミネソタ州、リーチ湖周辺に拠点を置くアニシナベ(チペワ)族として生まれた。彼は5歳の時に、インディアン事務局が運営する寄宿制の学校に入れらたが、それは、彼や同じ世代の子どもたちから早い時期に母語の知識を剥ぎ取るためだった。彼が最初に日本と今日まで続く親交を深めたのは、1950年代にアメリカ空軍の軍人だった時である。米国に戻ると、彼は安定した仕事に就けず、アルコール依存症を経て、2年間を刑務所で過ごすことになった。しかし、出所するまでには、彼にはアメリカン・インディアンを守るという生きる目的が生まれていた。

革命的な1960年代と1970年代はアメリカの官僚機構、法執行機構が猛威を振るった時代であった。バンクスは1968年にアメリカン・インディアン運動を立ち上げた創設者の一人で、この運動はアメリカン・インディアンのさらなる自立を確立し、何世紀にも渡ってアメリカ政府が反故にしてきた彼らの条約上の権利を認めさせるために始まったものである。彼は多くの主な抗議活動に関わってきた。例えば、1969年のサンフランシスコ州アルカトラズ島占拠、ワシントン DC での破られた条約のための行進、1972年の「BIA 本部ビル占拠抗議」、そしてサウスダコタ州での1973年の71日間に及ぶウンデッド・ニー武装占拠などである。バンクスの親しい同志の一人である、レナード・ペルティアは今では有名になったサウスダコタ州のパインリッジ居留地での銃撃戦に関連する罪で2回分の終身刑を宣告された。1975年6月に起こったその銃撃戦では、FBI 捜査官2人とインディアン1人が亡くなりったが、この件に関するFBIの違法な行為は明らかであるにも関わらず、レナード・ペルティアは18年が経つ今も投獄されたままで、バンクスは彼の釈放を訴え続けている。

1989年に日本語で書かれたバンクスの唯一の伝記が出版され、バンクスは以前より日本人に知られるようになったかもしれない。受賞もしたこの本のタイトルは『聖なる魂 Sacred Soul』で、作家/活動家の森田ゆりによって書かれた。

近年、バンクスは世界中の先住民族のための草の根組織に多くの時間を費やしてきた。彼は走るイベントを通して世界中にネイティブ・アメリカンの信条を広めるために「セイクレッド・ラン」を設立した。日本は1988年にセイクレッド・ランの開催地になり、1995年にもこのイベントが再び日本で開催されることになった。このイベントは北は北海道に始まり、南は沖縄まで、そして第二次世界大戦終結50周年記念式典に合わせて、広島と長崎で集結する予定で、バンクスはまた、同じ夏に沖縄で開催予定の世界先住民サミットの主催者の一人でもある。

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Subtitle
——【ブライアン・コバート】セイクレッドランという団体について、またこの団体の進行中のプロジェクトについてお話しいただけますか。

このランは、ブリティッシュ・コロンビア州、バンクーバーで1977年に開かれた会議の結果、始めることになった。約200人の部族長や氏族母親といった長老が集まり、一週間を通してたった一つの問題について話し合ったが、その問題とは、人間と母なる地球とのあるべき関係についてであった。この関係がどのように悪化してきたか、いかに人間がこの関係を壊してきたか、例を挙げればたくさんあります。例えば、酸性雨、大気汚染、ウラン採掘,そして、選鋼くずが空や水域に排出され、全てを汚染しているのだ。

また、人間同士の関係がいかに壊れているかについても話し合った。互いを敬う気持ちの欠如や価値を認め合わないことなどが原因として挙げられ、何をすべきかの結論はすぐに出た。それは、聖なるパイプの儀式、サンダンスの儀式、スウェット・ロッジ(治癒と浄化)の儀式、名付けの儀式といった私たちの伝統儀式を復活させて強化していくことだった。それにはまず私達自身が団結し、強くならなければならない。その最初の目標が母なる大地と調和する関係を築くことであった。

話し合いの結果が紙一枚に要約され、私はそれを報道機関、地域の会報、インディアンの新聞社、各地のラジオ局に送るように頼まれたが、私は非常に重要な最終声明に関わっていたので、何か他のことをするべきではないかと感じていた。このメッセージを伝えるために私に何ができるのだろうか。すぐには思いつかなかったが、半年が経つ頃、一つの考えが浮かんだ。村から村へ走るのだ。走ることの古い伝統を引き出す、つまり、それが聖なるランニングなのだ。私たちはその最初の年に500マイルを走ることから始め、その後、今年度の分 [1993年のオーストラリアとニュージーランド] を入れずに15年間で、3万4千マイルを走った。

私たちは北米を3回横断した。つまり、米国を2回、カナダを1回だ。そして、北米から中央アメリカまでを1回縦断し、またヨーロッパ13ヶ国も回った。以前に日本へ行ったが、1995年にも再度訪れる予定だ。私たちは地元で500マイルイベント始め、ずっと同じメッセージを伝え続けている。伝統儀式に立ち戻り、家族の絆を強くする必要があるということを。そして、また飲酒と薬物使用についても断固とした反対の立場をとり続けている。

年を追うごとに私たちと共に走る人達の両親や祖父母から、絶えず相談の電話を受けるようになった。中には、禁酒を破ってしまう者もいて、本人たちと話しをしてほしいという電話もある。また、彼らの息子や娘に学校へ行くように説得してほしいという電話もある。私は彼らに手紙を書いて説得するべきなのだろうか。また各国で多くの競技イベントの相談に乗ったりもしている。私たちは長距離走ではちょっとしたエキスパートになっている。私たちの仲間が一回に走る距離は、25、30、40、50、60、70、80、90、100マイルと様々で、毎日25〜30マイルを走るランナーもいる。彼らが参加し始めた頃は、一日に走る距離は2~3キロだった。

私は「聖なるランニング」に重きを置いてきたが、中にはマラソン自体に進む者もいた。ボストンマラソンや東京マラソンといったような。とにかく仲間たちとやり続けている。私の知る限り、本当にごく小さな歩みだ。人々は次のようなことを問うだろう。「あなたは何を成し遂げているのか」と。しかし、問題は私が成し遂げてきたことではない。問題なのは、私は引き受けた責任をきちんと果たしているのか、村から村へメッセージを伝えているのか、ということなのだ。そして、私は1977年に遡り、責任を果たしている、と答えた。ですから、私の仕事は、ランナーたちに次の村へメッセージを伝えてもらうことであり、そのメッセージを受けとった人たちがどうするのか、それは私たちとは関係のないことなのだ。

しかし、私にとってはメッセージを伝えた後にどうなったかを知ることができないのは少し残念なことだ。辺境の村から電話があって、その村を訪れた私たちが彼らの子どもたちの一人に感動を与えた、と聞けば、彼らは来年私たちと一緒に来てくれるだろうか、と思うし、多くの子どもたちが私たちを見て、「飲酒と薬物使用の禁止」を誓うのを知れば、第二の役目を果たせていることが分かるのだ。

——あなたはこの国何度も訪れておられますが、日本の人たちに、特に北海道のアイヌにどんな親近感を抱いておられますか。

アメリカン・インディアンが腰に大きな青みがかった痣を持って生まれてくるのは知ってたが、日本人もまた出生時に同じような腰の痣があると知った。それを知ってから何年も経った後、私はそのことについてもっと掘り下げようとした。調べてもそれ以上の説明はなかったが、私は祖先が同じ者たちはその痣を持つのだと感じた。アイヌ、日本人、インディアンはその青みがかった痣によって結びついているのだと思う。

アイヌの人たちには母なる大地との関係において信仰していることがある。今も守られている信仰かどうかはわからないが、私は神道や仏教について学んだわけではないが、それらの世界では人間と地球は切り離されて考えられているようだ。哲学的な意味において。私は神道や仏教に十分に入り込んでいないので、神道や仏教をそういった分野の中で解釈するのは難しいが、結局はどこかで先住民の考えにぶつかるのではないかと思う。先住民の考えはやはり何千年も前から変わっていない。つまり、地球は母であり、私たちはその子供たちであるということだ。

——日本は世界平和をあなたが最初に真剣に考え始めた場所だと言っておられますが、何に触発されたのでしょうか。

私は1954年から日本を知っている。その時、私は占領軍として日本におり、原爆投下の9年後に広島に行った。そこはまだ瓦礫に埋もれており、建物などの再建中だったが、多くの場所は [放射能]汚染の濃度が高く通行止めとなっていた。

しかし、そこで、人力車を見かけた。私は人力車を引っ張る人たちと出会い、話した。私は古代米を収穫する集団の出身で、私たちの古代米は日本人にとっては水田にあたるものだ。私は水田を耕す彼らに加わった。横田基地の近くに水田があり、その農家の一人と知り合いだったのだ。ほぼ毎晩 [水田で] 過ごし、彼らと二期にわたって米を収穫した。1950年代、私はそんな風に日本と出会い、日本を好きになったのだ。日本のことを考えると、いつもそのことを懐かしく思い出し、感傷に浸ってしまう。

しかし、年月が経ち、日本に戻ってきた。今では半年に一度は日本に来ている。そして、目にするのは、マクドナルドにケンタッキー・フライドチキンといったファーストフード店で、日本人はだんだん太ってきた。私は日本のテレビや音楽、そして「アメリカン・ドリーム」を観察してきたが、私には、日本がそういった夢を追いかけ始めているように思える。そして、その日本の西洋化こそが、私にとってとても悲しいことなのだ。私はアメリカン・インディアンにも同じことが起こったのを見てきた。いかにアメリカ人が私たちをアメリカナイズしようとしてきたかを見てきたのだ。いかに私たちの考えを西洋化しようとしてきたかをだ。しかし、年月が経つにつれて、官僚主義や抑圧を潜り抜け、多くの虐殺、痛み、苦しみを超えて、脈々と受け継がれる伝統が生き続けている。私は同じことが日本においても起こっていると感じ、それについて話をしなければいけないと思うのだ。

日本の若者が繰り返し聞いてくる。あなたは何を言うことができるのか、どうやって私たちを助けることができるのか、と。しかし、アメリカン・インディアンが世界の問題の答えを持っているわけではない。ただ、私たちは同じ立場で頑張ってきただけで「これが答えだ」というような日本の文化にたどりつける一本の糸があるなら、彼らはその糸を探そうとしなければならない。そして、私が心から言いたいことは、もし、その糸を探さずに、アメリカン・ドリームならぬ「東京ドリーム」を追い続けるなら、精神的な支えをなくし、精神的に破綻していく、ということだ。どの宗教が一番とか、一番の宗教があるのかどうか、といったことはどうでも良い。しかし、もし精神的な指針や基盤、方向性というものがなく、あなたの暮らしの本質的な部分が高い精神性を基礎としていないなら、あなたは自分というものを持っていないと同じだ。転倒したら、激しく身体を打ちつけ、もしかすると、二度と立ち上がれないかもしれない。なぜなら助けようと手を差し伸べてくれる人がいないからだ。

私は困難に陥った時にアメリカン・インディアン運動と共にいた。そこからは逃げなかった。そこに留まり、こう言った。「これが現実だ。もう虐待にはうんざりした。我々はここに居て、最後まで戦い抜く」と。しかし、戦い抜くというのは、ただ単に武力対立に限らない。子供たちが学校で勉強する本の中の反インディアンに関する記述に対して、ジョン・ウェインの映画に対して、そして連邦政府の所有地政策の侵害に対して、反対の声を挙げることでもある。つまり、物事に対して違った見方や考え方をすることなのだ。違うように物事を受け取るのではなく、別の見方をすることなのだ。

——アメリカン・インディアン運動の創設メンバーの一人である、あなたの目から見て、目標達成にどこまで進んだと思われますか。

人権侵害に苦しむ人々、飢餓に苦しむ人々、公民権が与えられていないことに苦しむ人々がそれらに対して立ち上がり、抗議の声を上げる、もう沢山だと声を上げる、一旦そういう感情に達したとき、彼らは最後まで戦い抜くだろう。闘いの場を法廷へと移し、失業、薬物、アルコールの問題、児童虐待、互いに対する侵害を取り上げ、闘うだろう。彼らは最後までやり通すだろう。それらが、アメリカン・インディアン運動の成果なのだ。

——当時を振りかえって、FBIがアメリカ・インディアン運動やその他の解放運動を徹底的に排除するために行った軍事行動について教えてください。また、どうやって生きて脱出することが出来たのですか。

私はウンデッド・ニー武装占拠の罪で公判を受けていた。その判事が知りたかったのは、なぜ連邦保安官が政策を遂行していたのか、なぜ彼らがそこにいたのか、つまり、なぜ彼らが米国の軍事機器や人員を使ったのか、ということだった。そして、特に、数人の軍人の行動について知りたがっていた。その判事は一人の軍人に聞いた。「ウンデッド・ニーでのあなたの任務は何だったのか。」と。

そして、彼は言った。「デニス・バンクスを倒すことだ」と。判事は彼に尋ねた。「それはどういう意味か。彼に傷を負わせるということか。」彼は答えた。「いいえ、彼を倒すという意味だ。」判事は尋ねた。「それは彼に発砲するという意味か。彼を撃つという意味か。」彼は答えた。「いいえ、彼を倒すという意味だ。」彼の判事への答え方はそんな風だった。そして、判事はだんだん腹を立て始めた。「それは彼を殺すという意味か。」彼は答えました。「いいえ、彼を倒すという意味だ。」判事はものすごく腹を立て、こう言った。「それなら、あなたは明らかに失敗した。彼はいまもそこに座っているのだから。」そして、彼は答えた。「ええ、しかし、わたしはやろうとしたのだ。」判事は尋ねた。「何回、あなたはやろうとしたのか。」彼は答えた。「7回だ。」ほんのちょっとしたやりとりだったが、判事は非常に頭がよかった。判事は言った。「あなたは7回、彼を倒そうとしたのあ。」彼は静かに「はい。」と答えた。そして、軍人は私に目をやり、私も彼を見た。私を撃とうとした男がここにいる、彼は7回私を撃った。そして、判事は言った。「質問は以上。」軍人は立ち上がり、私の席の前で立ち止まり、こう言った。「デニス、分かってほしい、恨みなどないんだ。ただそれが仕事なんだ」と。彼はそう言ったのだ。法廷にいるすべての人がそれを聞いていた。そして、私は無感情で彼を見ていた。その後彼らは他の質問をした。その間、私は報道機関が外で待っているとわかっていたので考え始めた。報道機関を前に米国政府に私を倒すように命ぜられた男について、何を言うべきかを。

それから、私は外に出た。思った通り、報道機関が待ち構え、私に群がり、私の反応を尋ね、私は答えた。「私も自分の仕事をしたまでだ」と。それが私のできた唯一の答えだった。

彼に対してどう思ったか。私は何も思わなかった。発砲したのは私ではありません。何年もそれについて考えなければならないのは私ではありません。しかし、ウェイン [当時の連邦保安官局長のウェイン・コルバーン] については考える時があった。彼は夜寝るときに何を考えているのだろうかと。自分は人を殺そうとした、と考えるのだろうかと。もしかしたら、彼は私を倒すように任ぜられたのかもしれない。しかし、本当に問題なのは、どうしたらそんな事が出来たのだろう。ということだ。答えは出ない。そんな風に彼のことを考えるが、いつまでも深く考えることはしない。私はただ次に進むだけだ。

どうやって生きて脱出したかわからない。私はブラックパンサー党が殺されるのを見た。FBIやシカゴ警察を見た、いや、実際には見なかったが、午前3時にドアを打ち破って、人々が撃たれ、殺される中を生き延びた。ブラックパンサー党は人権侵害に苦しむ人なら誰でもしただろうことをしただけなのに。武力衝突という意味では、アメリカンインディアン運動は上回っていた。私たちはウンデッド・ニーで、米国政府がはったりを仕掛けていると見て、やれるものならやってみろ、と挑んだ。しかし、それは71日間毎日続く本気の射撃だった。数百万もの銃弾を浴びせられたのだ。

ウンデッド・ニーでは、300人のFBI捜査員が私たちを包囲した。それに加えて、90人の米国軍人とあらゆる「ごろつきたち」もいた。彼らは撃ちまくった。2、3百人が私たちをめがけて撃ってくるのだ。7、8時間絶え間なく。ただの狙撃ではない。それはもう、バキューン、バキューン、バキューン、バキューンと膨大な量だった。そして、彼らは35人乗りの武装輸送車の陰に隠れていた。私たちは包囲され、哨兵線の中だった。どうやって生き延びたのかわからない。恐らく偉大なる神秘のおかげだろう。もし100歳まで生きようと思っている私を、そのように導いてくださったなら、あと50年は心配する必要がないだろう。(笑)

——「第三次世界大戦がここ、ウンデッド・ニーで始まるかもしれない」と、あなたが言ったと伝えられていますが、ウンデッド・ニー占拠の間、何を考え、感じておられたのですか。何か知っていることがあったのですか。

[1973年] 3月3日のことだった。警備の責任者の男が午前4時ころに私を起こして、こう言った。「D・J、よくわからないが、何かいるんだ。起きてもらえないか。」私は起きて、丘の上に行った。彼はまた、こう言った。「聞いてくれ。遠くでブーンブーンという音が聞こえる。遠くで機関車のような音が。何かわからない。でも、D・J、前にもこんな音を聞いたことがあるだ。」何か聞こえた。止まっては始まる音が。そして金属の音も交じっていた。その日は午前6時か7時まで、ものすごく霧が濃かった。そして、彼が双眼鏡を覗いて、こう言った。「どこであの音を聞いたか、今わかった、ベトナムだ。」そして、私も双眼鏡を覗いた。そこには武装輸送車がいて、動いていた。その音を私たちは聞いていたのだ。金属と金属が擦り合うようなその音を。それらは暫くの間、止まり、位置を変えていた。

これは戦闘状態ではないかと思った。もし彼らが政府のあらん限りの力を使って私たちを立ち退かせようとするなら、世の中にはこのように言う人がいるかもしれない。「もういい、こいつらは人間じゃない」と。そして、その人はその政府と闘うだろ。そして、それが私たちの仲間の一人かもしれない。そういう意味で、戦争が始まるかもしれない、と言ったのだ。

そして、このような状況を目にした時、この国の人々は政府に対して疑問を感じ始めた。何十万もの若者たちが、「ベトナム戦争はもうたくさんだ」と声を上げていた。そして、若い記者たちはニクソン政権に疑問を呈していた。つまり、彼ら若者達は政府に疑いの目を向けていたのだ。それが私たちを救った。若者たちはすでに政府に声を上げていたのだ。彼ら、アメリカン・インディアンを撃ってはいけない、と。

3月の第2週目頃、ギャラップ世論調査が行われ、ウンデッド・ニーでのアメリカン・インディアンの武力闘争に対する賛否が問われ、72%の国民が賛成と回答した。それがあの闘争を止めたのだ。ニクソンは、その結果を受け入れた。数年後、私は [ニクソンの補佐官ジョン・] アーリックマンが書いた手紙を見た。その手紙には、毎朝ニクソンがウンデッド・ニーはどうなっているのかと聞いていたことが書かれてあった。ニクソンは司法省が平和的に解決できなかったことや戦車や軍に対して腹を立てているように書かれてあった。それが私たちに対する告訴が減らされた理由だった。連邦政府の裁判官はラッセル [・ミーンズ] と私に対する罪の半分を棄却した。そして、私たちに対する罪を棄却した理由を次のように述べた。自分が連邦政府の裁判官である以上、米軍が文民統制をないがしろにすることを絶対に許さない、と。