山を動かす 〜土井たか子氏に聞く
(MOVING MOUNTAINS — An Interview with Doi Takako)


土井たか子氏ほど戦後の日本の政治情勢に決定的な影響を与えた人物はいなかったであろう。土井氏は兵庫県選出の衆議院議員で日本社会党の元委員長を務めた。1989年、1990年の国政選挙では日本社会党をほとんど独力で圧勝に導き、自民党はこの敗北により1955年に政権をとって以来、初めて過半数を失い、盤石だった党の未来に影を落とした。

土井氏は1928年11月30日、神戸で医師の父、元教師の母の、五人兄弟の娘として生まれた。土井氏が初めて不正に立ち向かったのは、彼女が小学校に入学した最初の日、身体に障害をもつ女子児童が男子児童からいじめられているのを守った時だった。土井氏とその男子児童はクラスの児童の前でひどく叱られた。成長した土井氏は第二次世界大戦の恐ろしさを、身をもって体験することになる。それは米軍の空襲で負傷した民間人の腕を切断する父の助手をした時だった。その恐ろしい戦時中の記憶はその後の彼女の強い反戦、護憲の信念を形作った要因の1つとなった。

1956年、土井氏は京都の同志社大学大学院で憲法学の修士号を取得し、母校や関西の他の大学で教えた。彼女は学生の頃、エイブラハム・リンカーン米国大統領の映画を観て、彼の奴隷解放宣言に涙が出るほど感動した。彼女が、よりどころのない、恵まれない人々の側に立つ弁護士になりたいと決意したのはその頃だった。リンカーンに出来たことなら自分にも同じことが、いや、女性である故にそれ以上のことが出来るのではないかと土井氏は思った。彼女は保守的な両親に逆らえず大学進学を諦めざるを得なかった級友の女子生徒たちのことがいつも頭にあった。そして女性だからこそ出来る仕事を通して何かを成し遂げたいと決心した。

土井氏は日本の戦後の平和憲法を固く信じていたが、意外にも当初は国政に出ることに気が進まず、神戸地域の地方自治体で働くことを選んだ。激動の1960年代において、そうすることがより一般の人々に寄り添うことが出来ると感じたからである。

伝えられているところによれば、1969年、彼女は日本社会党からの出馬の要請を頑なに辞退していたようだ。しかし、当時の神戸副市長から、いづれにしても勝つ見込みはないのだからと繰り返し説得され、侮辱されたと感じた土井氏は怒り、即座に市の委員会の職を辞し、日本社会党からの出馬要請を受け入れ「たった今、選挙に出ることに決めました。」と述べた。それ以来、地元の有権者たちは、この気性の激しい、歯に衣を着せない土井氏を衆議院議員として選出してきた。そして土井氏は親しみを込めて「おたかさん」と呼ばれてきた。

社会党の中で昇進を果たし、土井氏は1986年に社会党委員長に就任した。1989年の参院選、1990年の衆院選で自民党が敗北を喫する中、土井氏の人気は最高潮に達した。土井氏はこの勝利を「山が動いた」と例えた。現状に挑む、彼女の力強いリーダーシップは、女性や日本の政治の枠ぐみから取り残されてきた人々にとっての新たな力と刺激となった。土井氏は1989年の自民党の完全敗北を受けて参議院で首相に選出されましたが、この決定は衆議院で自民党の過半数によってすぐに覆された。

1991年7月、土井氏は委員長を辞任した(党名は社会民主党へ改称)。今では幾分、党の中心から外れはしているが、現在も依然として自民党と渡り合える存在であり続けている。また関西の住民にとって土井氏は、最初に出馬したときのように人気があり、社会に一石を投じる政治家である。そして以前と同じように阪神タイガースや関西の伝統的な娯楽を臆面もなく愛する一方で、政治的既成勢力を激しく叩く、といった存在なのである。

以下は、大阪に拠点を置くジャーナリスト、
ブライアン・コバートが日本の政治という「山」を動かす力となった土井氏の率直な意見を聞いたインタビューの抜粋である。

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Subtitle
PKO法案の話しから始めましょう。既に可決されましたが、どのように感じておられますか。

まず、PKO法案の内容に問題があります。最大の問題は自衛隊の派遣です。それは日本憲法の精神の下、いかなる状況下においても許されていないのです。私たちはその点に賛同できません。ですから誤解しないでいただきたいのは、[我々の党が]日本の国際貢献に反対しているのは、この法律に反対しているからなんです。これまでに我々の党は非武装地帯で日本が出来ることについていくつも提案してきました。我々の党が作った法案も提出しています。私が強調したいのは、国際貢献における日本の重要な役割について最も考えているのは私たちの党だということです。

問題の2つ目は、この法案の国会で審議されたやり方です。PKO法案は予定されていた野党からの質問を打ち切り、力ずくで成立しました。そのような審議で国民からの支持が得られるはずは絶対にありません。それは異常です。この法案は民主主義のルールに反して可決されたのです。

あなたはよく「日本は経済的には大国だが、人権においては小国である」とおっしゃいますが、その発言の背景にはどのような考えがあるのでしょうか。

私は日本の人権意識はその経済力とは裏腹にまだまだ低いと頻繁に指摘を受けてきました。日本が貿易においては黒字かもしれないが、道徳性においては赤字であると指摘されるのは辛いことです。国内的に、差別や[持つ者と持たざる者との]格差について十分なことがなされておらず、もちろん国際的には言うまでもありません。それはつまり、戦後の日本の政治政策や態度において第二次世界大戦を起こしたことについて何の反省も反映されていないということなのです。

冷戦が終わり、最近は南北問題が頻繁に議論されています。日本は先進国としてアジア内の南北格差をどのように是正してゆくのか、その取り組み方においては厳しい目が向けられると思います。例えば日本のODA(政府開発援助)は現在まで経済発展に重きが置かれてきました。しかし、私はその優先順位を環境保全、貧困撲滅、医療の向上、教育、公衆衛生といった、言い換えれば社会発展につながることへと変えていくべきだと提案しています。

1989年から1990年、あなたの人気が最も高かったころ、もしあなたが首相になっていたら、今までにどんな変化を起こしていたでしょうか。

多くのことを変えていたでしょう![笑]当時、政治不信がますます高まっていました。つまり、政治は国民の意思を反映していませんでした。次から次に起こるスキャンダルがさらに国民の信頼を失墜させていたのです。ですから、最初にしなければならないことは、汚職を防止し、政治倫理を確立できる思い切った法律を可決させることだと思います。どんな政策も国民の信頼なしに成功することはありません。曖昧な説明、急場しのぎの言い訳、時間稼ぎは、国民の信頼をさらに落とすだけです。ですから、間違いだったと分かったなら、はっきりと間違いだったと言うべきなのです。何かごまかされていると確信する場合、それは民主主義とは言えません。私の信念は政治には明快さが必要だということです。 

あなたは日本国民が政府を信頼していないとおっしゃいましたが、すべてが起こってしまったあとに、その信頼を取り戻すことが出来ると思われますか。

信頼を回復させるのはますます難しくなるでしょう。国民の不安や不信に対してきちんと対応しない政府を再び信じるのはかなり難しいことだと思います。

あなたは今も国民に大変人気がありますが、人気のある政治家である最も大きな要因は何だと思われますか。

[声をたてて笑い]それは、ちょっと・・・自分で答えるには難しすぎます!

国会で何が起こっているのか分からないという人々がいるんです。国会での様子を見たり聞いたりしていてもです。政治は分かりやすくなくてはならないのです。日本では情報自由法はまだ可決されていません。よく政治家が国民に聞かれたくないこと、知られたくないことがあまりにも多すぎると言われますが、私は隠し事をせずに話しますし、もし知らないことを聞かれたら、調べて後でお答えします、と答えます。恐らく、そういうところが共感を呼ぶのかもしれません。

社会党でのご自身の業績や指導力について長短両面においてどのように評価されますか。

それは相手に過去を振り返らせる質問です。政治は常に前を向いていなければなりません。上手くいったことも数多くありますし、そうでなかったこともあります。言えることは多くありますが、そういった経験は今後に活かしてゆきたいと思います。過去を振り返ることは私の性に合いません。[笑]

日米関係の未来をどのように思われますか。日本は常にアメリカの機嫌をとってきましたが、どのように線を引くべきだと思われますか。

その質問に具体的に答えるのは難しいでしょう。日米関係は実際とても重要です。しかし、日本と米国の二国間の中だけで考えるのではなく、常に意識的に国際社会の一部として、つまり世界情勢の中で日米関係を考えていくべきだと思います。日本と米国の両国が世界の未来がどうあるべきかについて、又いかに両国が共存していけるかについてのそれぞれの信念を持つこと、そして、もっと心を開いていくことが重要だと思います。こういったことは互いの関係において決してマイナスにならないでしょう。日米両国が互いに国際社会のあり方について率直な意見を交わしていくことが非常に重要だと思います。

米国国民に日米関係に関して直接伝えたいことや訴えたいことはありますか。

私の記憶が正しければ、[1992年]4月20日付けのニューヨーク・タイムズに
「日本の良い例」というタイトルの社説が掲載されました。その中で、日本をもっと高く評価し、非武装地帯での国際的な役割についてより真剣に考えていくことが重要であり、日本はもっと非武装地帯での国際貢献に自信と誇りを持つべきだということが書かれていました。ニューヨーク・タイムズの影響力は非常に大きいと思うので、そのように考えるアメリカ人が少なからずいると考えたいです。

1991年5月に私はモンタナ大学で話をしました。そして、日系社会の人たちに話をするためにシカゴへも行きました。その際アメリカの人たちと話してみて、彼らが私の考え方にかなり共感しているということが分かりました。また私にはアメリカ人の友人も大勢います。ですから積極的に出かけて行って、心を開いていくということが特に大切なことだと思います。日米関係について言えば、今までにアメリカ人が知っていることは全て与党もしくは政府から聞いたことだと思います。もし日本国民の考えがそれとは違っているなら[海外の人たちには]きちんと伝わっていないかもしれません。ですから民主主義を守るために私たち野党がもっと我々の立場を知ってもらうことが重要だと思います。民主主義の下では、こういった意見が存在することが無視されるべきではないと思うのです。議論をしたり、疑問を呈する機会がもっと与えられることが大変重要だと思います。

米国を訪れた際、私は様々なことを提案し、その一つとして、日本は軍事兵器貿易を禁止する国際法に向けて努めて行きたいと述べました。また、防衛に国家予算の20%以上を割り当てている、また生物兵器を開発している、新しい兵器開発にしのぎを削っている、というような発展途上国に対してはODA (政府開発援助)の支援を控えたいということも提案しました。その際、米国の人たちもこの問題に興味を持っているように思いましたし、私と同じように感じている人たちが大勢いるのを知って自信もつきました。また、日本の憲法9条を世界へ広げる運動を提案する学者すらいたのです。

最後に日本の未来についてのお考え、また夢をお聞かせ下さい。日本や日本人がどのようなことを受け継いでゆくことを望んでおられますか。

そうですね。日本のイメージという点でいえば、今のところ、日本は経済大国として評価されている国の一つです。しかし、[私が望んでいるのは]経済大国としてだけでなく、人権や環境問題としても評価される国に、そして国際的に信頼される国になってもらいたいということです。日本は経済力がありますが、他の分野で欠けています。海外の人たちが今でも日本の経済力に懸念を示すのは、そういったことが理由なのかもしれません。