おとぎ話やあれへん! 〜イーデス・ハンソンに聞く
(NOT JUST SPINNING FAIRY TALES — A Conversation with Edith Hanson)


今でこそ、いろいろな外国人が日本語を流暢に繰り、「タレント」として活躍している。しかし、イーデス・ハンソンさんほど日本人の間で認められ、尊敬されている「外国人タレント」はほとんどいないだろう。

ハンソンさんは現在54才、日本の芸能界で活躍した最初の外国人、そして大阪弁を話す外国人としてその名が知られるようになった。

ハンソンさんが日本で過ごした人生は、まるでおとぎ話のようである。1960年に来日、その後、映画やテレビなどで活躍し、ついには人権擁護運動家へと変身する。大阪弁を学び、やがてその大阪弁の流暢さからマスコミに注目されるようになった。映画やテレビにも登場、日本の芸能界の大御所とも共演している。また「週刊文春」に日本語のコラムを掲載し、何冊かの著作もある。

ハンソンさんが、ロンドンに本拠地を置く人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルの活動に関わり始めたのは、1970年代後半、早稲田大学での小さな集まりに参加したのがきっかけだった。ハンソンさんが参加したことで、日本でのアムネスティ・インターナショナルの活動も一般にとり上げられ、注目されるようになった。1981年からその日本支部の副支部長、1986年から同支部長として活躍している。

支部長就任の翌年、きらびやかな都市生活に別れを告げ、和歌山県の山村に移り、「主夫」の夫と共に生活している。

大阪を中心に活動しているジャーナリスト、ブライアン・コバートがハンソンさんの古巣、大阪でインタビューを行った。人権擁護に対して一貫した姿勢を見せながらも、笑い声と笑顔は以前のままである。

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コバート:日本の芸能界での話から始めましょう。どういうきっかけだったのですか。

ハンソン:偶然。世の中そういうものやと思うけど、偶然です。最初の結婚が文楽の人形操いの人とやったから、外国人がそういう世界の人と結婚するということ自体めずらしかったのやないかなあ。あちこちからインタビューされて、そのうち、「大阪弁しゃべっている!」ということになって。これもめずらしいことやし、そこからだんだん始まりました。

コバート:日本で最初の「外人タレント」になられてどうでしたか。一番印象に残った経験というと?

ハンソン:藤山寛美さんとご一緒した「青い目の花嫁さん」(1964年)かな。初めての映画出演やったし、ちょっと顔を出すだけやなくて、主役やったから、最初は演技の仕方も撮影のことも何も知らんかったし、藤山寛美さんに、ミヤコ蝶々さん、最近亡くなった笠智衆さん、そういったすごい俳優さんらと最初から共演できて、みなさんにお世話になって、いろいろと教えてもらいました。

コバート:大阪弁を話すということは、大阪の人や文化と何が繋がりがありますか。それとも最初に覚えた日本語が単に大阪弁だったという・・・

ハンソン:多分、最初に覚えた日本語だったというのが一番大きい理由やと思います。もし、初めて日本に来て、東北でも九州でも、別の所に住んでいたら、そこの方言で話しているのやないかなあ。でも、最初に大阪、関西に住んでよかったと思います。いろんな意味でリッチなとこやから。古いものも、新しいものも、何でもあって、何でも手に入る。東京は圧力釜みたいにプレッシャーの多いとこやけど、大阪はそうやない。大阪はどこから見ても大都市なんやけど、地元意識みたいなもんがあるから。テレビで「タレント」をしていたころ、大阪の人らはみんなお互いに顔見知りで、漫才、落語家、大阪出身の俳優さんら、ひとつの大きな家族みたいで。大阪出身の人は言葉が好きっていうか、何を言うにも、いつも何か笑いをとろうとします。それが受けると、何回も何回も繰り返す(笑い)「ええかげんにせえ!」っていうくらいしつこい。私もそういうタイプの人間やから、そうゆうの大好き!

コバート:芸能界をやめて、人権活動だけに専念するようになったのはどうしてですか。

ハンソン:なにも止めてへんよ。(笑い)それに人権ばっかりやってるわけでもないし。両方のごちゃまぜというとこかな。でもほんとに、芸能界は止めたわけやなくて、ただ田舎の方に引っ越して、その方がテレビに顔を出すより大事やったから。どこのボランティア団体でも同じやけど、アムネスティでも、「ノー」って言わへん限り、知らん間にどんどんはまり込んで、どんどん忙しくなってしまう。これをやめて、あれを始めたというのではなくて、自然にそうなった。

コバート:ハンソンさんの目から見て、人権に関して、日本は世界でどのランクに入りますか。一番大きな問題はなんですか。

ハンソン:ランクを付けようなんて思ったこともないし、そんなこと全然意味がないし。どんないい国でも、改善する部分は必ずあります。ボスニア・ヘルツェゴビナで起こっていることを考えれば、日本はずっといい状態だと言えるし。せやけど、それを基準に他の国を判断することはでけへん。何か言ったから秘密警察に逮捕されるという心配もないし。それでも女性の人権とか、「未開放部落」の人のことにしても、問題が残っています。先祖が「部落民」やったということで、今でも不当な扱いをうけている人がいてはる。北海道のアイヌ民族の問題でも同じです。数えたらきりがない。

日本政府はもっと積極的に批准していかなあかんわ。海外援助にしても、開発資金にしても、どこにどう提供するのか、もうちょっと慎重にやらへんと。自分たちが援助している国で人権がどう扱われているか、それを見なあかん。日本に来て働いている外国人に対しても、やるべきことはたくさんあるし、日本で生まれ育った韓国・朝鮮の人らについてもそうです。

コバート:アムネスティの記録によると、囚人に代わって手紙を書くだけで、多くの場合、生死を決定するような大きな違いを生み出すことができるということですが、手紙を出すという運動方針とそれに対する反応だけに限って言えば、事態はうまく進んでいるのでしょうか。

ハンソン:たいていは、そうです。アムネスティが最初スタートしたころ、誰でも手紙は書けました。でも、たとえば、アムネスティのメンバーがある国に行って、その国の人権について調査したいとか思ったりすると、入国が認められないということもよくありました。政府と話さえできない。今は全然違います。アムネスティの報告に対する関心が高まってきています。手紙を書いたからといって、一晩にして事態がよくなるわけやない。積み重ねなんです。長い間ずっと続けていく、人々に訴えていくことが大事なんです。時間はかかります。でも効果はあるんです。実際に囚人が釈放されていて、その比率も以前の3分の2から4分の3近くまでになってます。

どうしてその囚人が釈放されたのか、それははっきりとわかりません。でも、ちょっと考えてみて。「もし、手紙の訴えが全然なかったらどうなってたやろ。まだ拘留されているのやないやろか、拷問を受けてたのやないやろか。死んでたかもしれへん・・・」アムネスティが活動の対象にしてる人は、ネルソン・マンデラや金大中、アンドレ・サハロフ、アウン・サン・スー・チーといった名の知れた人らだけと違います。ほとんどは名前を聞いたこともない人らです。だから、もしアムネスティが何もしなかったら、誰も何もしないことになってしまう。

コバート:将来的に見て、日本を含め世界の人達はそれぞれ何ができるのでしょうか。単にアムネスティということだけではなく、人権問題一般について。これからの世代が現在と同じ問題を抱かえていかないためには。

ハンソン:まず初めに、人権のために何かしたい、関わって行きたいと思うのやったら、たくましい想像力が必要です。(笑い)いつでも想像力を働かせて、「もしこれが私の家族やったらどうしよう」「もしこれが、自分に起こったことやったらどうしよう。どう感じるやろ」その上で、何が公平なのか、その感覚を一生懸命身につけことやと思います。そういう感覚をもっと磨いて、自分の日常生活にあてはめてみるんです。

それが第一歩やと思います。「そうや、不公平や。せやけど、それが世の中や。それが現実や。しょうがないやんか。」そうやない。何が公平で、何が公平でないのか、国連の国際人権宣言 (1948年12月) みたいに国際的に認識された基準があるんです。世界中の国々が、「これが基準や」というものが。カラハリ砂漠の真ん中でも六本木でも、どこであろうと同じなんです。

理想を夢見てるだけやなくて、理想を十分裏打ちするものがあるんです。自分ひとりでおとぎ話を紡いでいるのやないということをわかって欲しい。
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ブライアン・コバート 米国人ジャーナリスト。さまざまな雑誌や新聞でフリーランスとして活動。現在は、英字新聞 Mainichi Daily News のスタッフライター。同時にUPI東京局の地方特派員でもある。関西在住で、関西の国際化を推進している。