日本の良心
(THE CONSCIENCE OF JAPAN)

長崎市長、本島等は日本人政治家をいら立たせる傾向があります。彼は1988年12月に第二次世界大戦の残虐行為の責任は昭和天皇にある、と公に発言し、あらゆる方面からの非難を巻き起こしました。本島市長は最右翼から売国奴として死ぬべきだと定められ、彼が長く属した自民党からは追放され、日本共産党の議員からも厳しく非難されています。1990年1月18日、銃を持った右翼の男が長崎市役所前で本島市長に歩み寄り、天皇に対する発言の制裁として、彼を背後から撃ちました。市長はその事件後も自分の意見を率直に述べ続け、その男は12年の禁固刑に処せられました。

日本の市長の中で間違いなく最も議論の的となっている本島市長はどう理由を考えても、この国の典型的な公務員ではありませんが、このことがまさに彼という人物を言い表しているといえるでしょう。彼の平和活動や人権問題への強い関わりが日本の大半の政治家に敬遠されているという点を踏まえて考えると、「日本の良心」というタイトルが彼に最も相応しいと思います。

本島市長は1922年2月20日に生まれ、子どもの頃に孤児となりました。当時は圧倒的な神道社会で、異教徒には敵意が向けられていた状況の中、彼は祖父母によって敬虔なカトリック教徒として育てられました。このような「違い」による最初の試練が彼に訪れたのは、戦時下の大日本帝国陸軍で軍役を努めていた時でした。また、彼は1945年8月9日の直後に長崎に戻り、原爆の悲劇を目撃しました。その後、高校教師として勤めた後、1959年に長崎県議会議員となりました。

彼は1979年に市長に選ばれ、世界的に有名な平和公園と長崎原爆資料館を断固として守る一都市で、原子爆弾とその被害者たちの記憶を引き継いでいくことを誓いました。長崎の平和公園には(広島のそれとは違って)数千人の朝鮮人被爆者の記念碑もあります。本島市長は、毎年、長崎原爆祈念式典の場を、公に日本の良心に訴える機会と捉え、日本の人々に対し、彼らの最愛の国は原爆の被害者である前に迫害者であることを思い出させようとしてきました。彼は日本自身の苦悩に対するよりも、朝鮮や日本の戦時中の残虐行為における他のアジアの被害者たちに対して、焦点を当ててきたのです。

まさにこの微妙な問題について、大阪を拠点に置くフリーランスジャーナリスト、ブライアン・コバートが「
日本の良心」に対し独占インタビューを行います。

——まずは、あなたが最近、長崎市被爆45周年祈念式典において、日本政府は「非日本人」被爆者に対し謝罪と賠償を行うべきだと公的に発言されたことについてお聞きしたいです。そのように発言した理由はなんですか。

それは当然のことだと思います。「非日本人」というのは、特に北朝鮮や韓国の人々のことです。1910年の日韓併合後の35年間、日本人は彼らの土地を奪い、彼らに母国で母語を話すことを禁じ、名前を強制的に日本名に変えさせました。また、彼らに日本の神社で参拝させたり、無理矢理に日本へ連れてきたり、朝鮮人女性を日本人兵士の性的目的で戦闘地へ送ったりしました。このように日本人は彼らに残虐行為を行い、人間として扱っていませんでした。そして無理矢理に日本へ連れてこられた朝鮮人達は原子爆弾で殺され、負傷したのです。ですから、日本政府が彼らに謝罪し、賠償することは当然のことだと思います。

——あなたは大日本帝國陸軍の兵士でした。どのような経緯でそうなったのですか?絶大な力を持つ天皇の名において、戦争の大義のために尽くす一人の敬虔なカトリック教徒として、当時はどのように感じていたのですか。

日本は当時、徴兵制でした。私は21歳で砲兵として入隊しました。軍隊に入るのは私たちの義務の一つだったのです。しかし、私は国内に駐屯していましたので、実際に海外の戦闘で戦うことはありませんでした。当時、私がよく受けた質問は、天皇とイエス・キリストのどちらが私にとって、より偉大であるか、または、より価値が高いかというものでした。[私が両方だと答えると]体罰が与えられました。兵士として辛い日々を過ごしました。

——あなたの友人や同胞の多くが第二次世界大戦で戦い、命という最大の犠牲を払いました。もしあなたが「敵」と直接戦わざるを得なかったとしたら、どうしていたと思われますか。

もちろん、わたしも他の兵士達と同じことをしたでしょう。戦場は人間を異常な状態へと追い込むので、私の良心も異常なことをするのに十分に麻痺していたかもしれません。

——お辛いことかもしれませんが、原爆投下直後の長崎へ戻られた時に、目の当たりにされたことをお話し頂けますか。

私が原爆投下後[約6週間後]に戻った時、見覚えのあるものは何も残っていませんでした。カトリック浦上教会、長崎医科大学、小学校2校の廃墟だけが残っていただけでした。それは完全なる荒廃状態でした。[周囲の] 山々からは緑が完全に消えていました。どう表現すれば、よいのか、それはもう残酷なものでした。原爆が投下されるやいなや、人間と動物の死体が辺り一面に散らばり、それは身の毛がよだつような光景だったに違いありません。

——「いまは第二次世界大戦も冷戦も終わったのだから、この問題を収めてはどうですか」と、言う人がいるかもしれません。それに対してどのように答えますか。

過去から未来へ成長する国民として、歴史の真実について考え、後世へ引き継いで行く必要があると思います。それが私の考えです。

——あなたは、このインタビューを受ける条件として、日本の天皇について直接的に、また深く話さないことを挙げられました。その理由をお聞かせいただけますか。

理由の一つは日本人のものの考え方にあります。日本人は自分の考え方の真偽や正しさを問われることを恥だと考えます。また、断固として自分の元々の考えにしがみつく特性があります。ですから、考えがまちがっているのかどうか、やはりそのように考えるかどうか、といった同じ質問を繰り返しされると、私は侮辱されているように感じるのです。

もう一つの理由は、[天皇発言を巡って] マスコミが私をヒーローに仕立てあげましたが、私はただの一般市民に戻りたいのです。ですから、わかりきっていることを改めて発言することを控えたいのです。

——決して侮辱するつもりはありません。

私が言いたいのは、今まで何度も聞かれてきたことと同じ質問をされたくない、ということです。私たちはともに責任のある人間です。さらに [天皇に対する私の発言は] つい最近のものですから、私に聞かなくても、その内容はつかめると思います。

——それでは次の質問にうつりましょう。あなたが撃たれて、殺されかけた日のことをお聞きしたいです。どのように感じ、何が頭をよぎったのか、お話しいただけますか。

何度もお話ししてきたように、最初は死ぬと思いました。撃たれる前の1年間、私は殺されるかもしれないと思い、その準備をしていました。今では、もういい年ですし、妻や子どもたちの心配もいりません。私は昔からのキリスト教徒の生き方を信じているので、死んだら天国に行くことを望んでいます。ですから、発砲された時、私は自分の人生を振り返り、神の教えに従い、貧しい人々や困っている人々のためにどれほどのことをしてきたのだろうか、どれほどキリスト教の戒律を守ってきたのだろうか、と考え神の前で心から自分の罪を悔いたいと思っていました。

——あなたは、その事件で変わりましたか。あなたの日本の歴史についての意見や、これまで発言されたことについて変わりましたか。

特に何も変わりません。

あの発砲事件には天皇の戦争責任に関する私の発言以外にも理由がありました。まず、日本政府は、ある特定の職に外国人を雇用するのに制限を設けていますが、私は長崎市役所で多くの外国人を雇うことをずっと提案してきました。そのような私の取り組みは新聞に広く取り上げられていました。二つ目に、私は美人コンテストに反対してきました。女性に対して差別的である、という理由からです。三つ目には、私が[アジア]難民を厄介者扱いするべきではない、と発言したことです。彼らが日本に来たのは、彼らの人権が何らかの形で侵害されているからなんです。例えば、食料不足といったような。ですから、厄介者に見えるからといって彼らを門前払いするべきではないのです。

そして、私はまた政府は北朝鮮人や韓国人の [戦時中の] 実状を調査し、その後彼らに謝罪し、賠償するべきだと発言しました。私はこのような発言を次から次に行ったので、発砲事件が起こったのだと思います。

——自民党はあなたが発言を抑えるように、また黙らせるために、どのような圧力をかけてきましたか?そして、別の質問ですが、政府からの財政援助という点で、長崎はいくらあったのですか。

金丸信元副総理や安倍晋太郎元官房長官などの多くの大物政治家が私の発言を非難しました。また、私は自民党の長崎支部の顧問として追い払われ、支部の役員達が[市役所まで]やってきて、直接私に抗議してきました。自民党の中心となっている保守党議員が電話をしてきたり、手紙を送ってくることもありました。そして、他の個人の人々やグループからも直接的、間接的に抗議されました。

もうひとつの政府からの財政援助についての質問ですが、均等な交付金を受け取っていたので、いくらかはわかりません。しかし、長崎選出の国会議員が公に語ったところによれば、政府は長崎市への交付金を出さないか、または低く抑えようとするということでした。[例の発言を受けて]

——第二次世界大戦について意見を述べることは、あなたが経験されたこれほどの苦労に見合うことですか。

もし日本が世界に信用される国になろうとするなら、こういうことを経験しなければなりません。もっと多くの人々が私のように意見を言うべきですし、国中にもっと解放された雰囲気を作っていくべきだと思います。そうすれば、日本は世界で受け入れられてゆくでしょう。

——あなたは長崎市長としてのご自分の業績をどのように評価されますか。強み、弱みの両方についてお聞かせ下さい。

市長になって、この4月で12年になります。間違ったこともしましたし、過ちもありました。例えば、個人企業から金を受け取ったという記事が新聞に載りました。ですから完璧な過去ではありません。

社会主義の背景をもつ考えを好んだ頃もありましたが、一貫した思想は持っていませんでした。私は勇敢ではありません。ただの普通の人間なのです。なぜこのようなことになったのか自分でも不思議です。

——一般的に言えば、日本が発展しているこの段階で、天皇の必要性はあるのでしょうか。もしそうなら、現在の、そしてこれからの天皇がどのような役割を担うことが日本に最も役立つと思われますか。

日本の憲法99条によれば、天皇又は摂政及び公務員等はこの憲法を尊重し擁護する義務を負う、とあります。ですから私もこの憲法を尊重する義務があります。この義務を負うというのは「象徴」としての天皇に対して礼儀正しい姿勢をみせるということです。それ以上何も言うことはありません。私が望むのは、天皇に国の象徴として新しい時代にふさわしい人生を送っていただきたいということです。

キリスト教にはモーセがシナイ山で神から与えられた十戒という戒律があり、有名な映画のタイトルにもなりました。これはキリスト教の土台の一つであり、ユダヤ教から由来しています。第一の戒律は、「主が唯一の神であること。偶像を作ってはならないこと。」です。ですから、キリスト教には唯一無二の神がいて、他に神はいません。私はこの戒律に従っています。

——言い換えれば、天皇には神としての居場所はないということですか。

そうです。

——それでは、最後の質問です。本島市長、長崎の遺産をどのように思い描いておられますか。世界の人々に長崎市や長崎市民のことをどのように記憶に留めてもらいたいですか。

「兵器のない平和」として記憶に留めてもらいたいです。これまで長崎は二つのことをずっと訴えてきました。一つには長崎が核戦争によって破壊された最後の地となりますように、そして、もう一つは、人類が後世に唯一の遺産として永続的な平和を伝えていけますようにということです。