追悼を超えて
(Beyond the Memorial: Nagasaki is Japan’s Most International City)
新地中華街やオランダ人居留地など、日本で最も国際的な都市、長崎
ブライアン・コバート
長崎 —— 日本の九州にあるこの港町は、非常に世慣れた旅行者であっても矛盾に満ちていると感じるだろう。
外国との接点として長い歴史を持つ長崎は日本でも有数の国際都市であるが、またその一方で、その独自のスタイルのためによく議論の的となっている。緑に囲まれ賑わう港を持つこの街は日本で最も美しい場所の一つである。しかし、これまでに環境が破壊され、住民が極限の犠牲を払わされてきた。
長崎の観光資源の多くが1945年8月に落とされた原爆の遺産である。しかし、日本で最初に外国人に開かれた街の一つだという歴史もあるので、長崎は近代史の原爆のイメージよりも、そのことが外国人観光客を惹きつけているのだろう。
長崎の旅はそれ自体が世界史の勉強になる。そのスタート地点は新地中華街だろう。ここは、日本の中国人コミュニティ発祥の地である。同じく中華街があるサンフランシスコ市ほどの華やかさはないが、この新地中華街はランチタイムに見るのが一番、いや味わうのが一番である。伝統的な中国の麺料理、ちゃんぽんの香りで鼻をくすぐられ、旅行者は中華街の沢山あるレストランのうちの一軒に引き込まれていく。
ある意味で、長崎には日本列島全体を通して中国が与えてきた影響がダイレクトに現れている。街全体に散らばる多くの寺院に中国の存在感の深さがはっきりと感じられる。それら寺院の中でも特に注目に値すべきは1620年代に建てられ、時の試練に耐え、戦争にも生き残ってきた興福寺や崇福寺だ。興福寺は日本最古の黄檗宗の寺院であり、崇福寺は美しい大明建築が有名である。
次の見どころは、言うなれば長崎版欧州共同体である。1600年台初頭のオランダ人移住者達が長崎を通して初めて日本人と貿易を始めた。街中にしっかり根付いたオランダの伝統が街の食べ物屋や土産物屋のあちこちで息づいている。はっきりとわかるのは、日本中に溢れるアメリカンスタイルのものがここにはないことだ。
長崎にいた最初のオランダ人が当時の日本人にとって外部世界の代表であった。「オランダ坂」と呼ばれる斜面にある居留地や長崎港内の出島にある旧和蘭商館はヨーロッパの影響を色濃く残す多くの場所の二つに過ぎない。
しかし、日本は両手を広げて外国人を歓迎していたとはとても言えない。丘の上にある「日本二十六聖人記念碑」を見ればそれが分かる。その場所では、西洋宗教の影響を排除するため豊臣秀吉によって1597年にヨーロッパと日本のカトリック信者たちが磔の刑に処されたと言われている。
15分ほど住宅街を歩くと坂本国際墓地へ着く。そこは長崎らしさを感じられる場所の一つだ。静かな秋の日、雲に覆われ今にも雨が降りそうな中、墓地の中を歩いていくと、国籍も宗教も様々な外国人の墓が並んでいる。中には一世紀以上も前のものもある。
長崎への観光客にとって群を抜いて人気の観光地は平和祈念像と平和公園だろう。広島に最初の原爆が投下された数日後に、この場所にも原爆が落とされた。この場所はそうした原爆の被害者を追悼するために建てられた。この日の訪問では、その頃になって雨が降り出してきたが、多くの鳥が10メートル(約30フィート)近くもある平和祈念像のてっぺんに留まっていた。この祈念像は35年前に平和を願うヘラクレスをモデルに建てられたものだ。
公園内外の雰囲気はたまに交通の騒音が聞こえはしたが、やはり荘厳で冷ややかだった。そばにある原爆資料館に入って、すぐに目に飛び込んでくるのは、45年前の原爆投下の直後に長崎を覆った放射性降下物を含んだ「黒い雨」の悲惨な状況だ。
長崎は確かに複雑な気持ちにさせられる街である。誰のせいだろうか。もし誰かいるとすれば、敬虔なカトリック教徒である本島等市長かもしれない。彼は11年の在任期間、この街中に漂う国際文化を熱心に促進してきた。長崎が世界で2番目、願わくは最後に原爆の被害を受けた都市として、その遺産を守り続けていることもまた彼が高く評価されている理由である。68歳である本島市長は「武器のない平和」を主張し、44万人の長崎市民の多くに支持されている。
本島市長の国際化に向けた意欲は海外では賞賛されたが、国内では彼を窮地に陥れた。彼は昭和天皇の戦争時の役割について非難し、地方自治体で雇用される外国人の数の制限について国に対して異議を申し立て、美人コンテストを女性差別だといって非難した。また、日本では誰も受け入れないアジア難民を受け入れ、第2次世界大戦の戦争被害者である、朝鮮半島の人々に対して謝罪と援助を行うように求めた。しかし、1990年1月、右翼の襲撃を受け、市長の発言はほぼ封印されてしまった。
「もし日本が世界に信用される国になろうとするなら、こういうことを経験しなければなりません」とインタビューで本島市長は語った。「もっと多くの人が私のように意見を言うべきですし、国中にもっと解放された雰囲気を作っていくべきだと思います。そうすれば日本は世界で受け入れられてゆくでしょう。」
長崎を日本で最も魅力的な都市のひとつにしているすべての矛盾を、旅人はどのように整理するのだろうか。筆者にとってのその方法は、平日の晴れた日にロープウェイで稲佐山に登り、蝶が舞い、鷹が悠々と飛ぶ空の下を散歩することだった。近くの島々を縫って港に入るタンカー船のクラクションが聞こえるだけで、街の他の地域では丘の下に隠れて安全に普段通りの生活が営まれていた。
自然の美しさ、中国やヨーロッパの影響、原爆の灰からこの街を再建した不死鳥の精神、この街が果たすべき歴史的役割など、ここから見ると、すべての矛盾がひとつになる。 日本の中で、これほど多くの疑問と答えで旅人の心を満たしてくれる場所は他にないだろう。
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ブライアン・コバート 大阪を拠点とするフリーランス・ジャーナリスト