黒煙のなかで [パート1]
作家で平和活動家の小田実との対話(注1)
アメリカによるイラク侵略が三年になる節目が近づいている。小田実はこの半世紀間の日本でもっとも著名な作家で平和活動家の一人である。彼は過去の戦争を振り返る……そして将来の平和についての道筋についてもまた。
(日本語訳:金井和子)
西宮の浜辺に建つ集合住宅で、小田実はコーヒー・テーブル越しに、第二次世界大戦時のニューヨークタイムズの紙面からのコピーを拡げて、目を走らせている。数十年前、小田はニューヨークタイムズのこれらの紙面を写真複写した。こんなふうに彼は、多くの来客にコピーを見せてきたのだろう。しわになった紙からそれが見てとれた。
小田は探していた紙面 —— 一九四五年六月一五日付けの紙面 —— を見つけると、一枚の航空写真をすばやく指さした。それはあきらかに米軍が撮影した写真で、彼が生まれ育った商業都市、大阪が絨毯爆撃されていた。まるでピンポイントで正確にその地点を示すかのように、彼の指はまっすぐに動いた。そして米軍の爆撃が引き起こす黒煙でおおわれた写真のある場所で、彼の指先はぴたりと釘付けになった。彼は言った。「私はここにいた。この黒煙のなかに」と。ニューヨークタイムズにこの写真が出てからちょうど二か月月後、日本は降伏した。
七三歳の小田と日本の彼の世代の多くの人にとって、戦争はたんに歴史の本に書いてある物語ではなかった。ちらちらするニュース映画の画面にみるできごとでもなかった。それは彼らが実際に生きた、あるいは生きなかった何ものかだった。あの戦争は、小田にとって将来の人生を決定するできごとだった。戦争は普通の人びとになにをするのか。それ以来ずっと、この真実を世界に語ることが彼の人生の使命になったといっても間違いない。
火のあるところにはかならず黒煙が上がる。小田の場合、その人生にはいつも、行動がともなうものだったように思われる。戦後日本の最も高名な作家の一人である彼は、アメリカのベトナム戦争に反対して活動し、日本政府から無視された災害被害者を代弁し、二〇〇一年九月一一日以後の平和を求めて発言し、断固として人種、民族差別を批判してきた —— 熱く火が燃えるまっただなかで、小田は社会の良心に訴えかけるためにことばの力を使った。
フリー・ジャーナリストのブライアン・コバートとのインタビューのなかで、小田はいくつか主要な著作執筆の時間を割いて、彼自身の「黒煙のなか」からの思考を語った。
過去の戦争
世界中で第二次世界大戦が猛威をふるっていた当時、ハワイ諸島地域は米国の占有下におかれていた。アメリカ人ジャーナリストで元兵士のロバート・スティネットは、彼の著作『欺瞞の日』のなかの調査で、当時のアメリカの文官と軍人たちは、大統領フランクリン・D・ローズヴェルトに至るまで、戦争に巻き込まれることに懐疑的なアメリカ世論を納得させる方法を探っていたと述べた。アーサー・マッカラム海軍少佐は、一九四〇年一〇月八日付けの八項目戦略のなかで「このような手段により、日本を[アメリカにたいする]明白な戦争行為に踏みきらせることができるなら、ますます結構だ」と提案した。一年後の一九四一年一二月七日 —— 日本時間の一二月八日 ——、アメリカ支配層の念願はかなえられた —— パール・ハーバー〔が奇襲された〕。
小田実——— 一九四一年に太平洋戦争が始まったとき、私は国民学校三年生だった。戦争が始まると、私の父は日本は負けると言い続けた。「地図を見ろ。アメリカは大国で日本は小国だ——日本はカリフォルニアよりも小さい。勝つことなどできない」と。私はそんなやり方で教えられた。
一九四一年一二月八日に戦争が始まったとき、私はパール・ハーバー勝利のニュース、捷報を知らなかった。私は学校に行った。同級生がこういった。「日本の大勝利だぞ!」と。私は驚いたが、うれしくなった。しかし、日本が勝ったからではない。まもなく戦争が始まるというころ、私たちは日本の将来をひどく不安に感じていた。そんな大国、大きくて進んだ国[の米国]と戦う日本は遅れた国だ。国民学校の二年生、三年生の私たちでさえ、それほど愚かではなかった。私たちは合州国 —— 巨大な航空母艦をもった巨大な国 —— の力を知っていた。そして日本はあまりに小さかった。
私たちは日本の将来をひどく不安に感じはじめていた。そしてパール・ハーバーの捷報を聞いたとき、ある意味で、私はホッとし、不安から解放された。うれしくなった。パール・ハーバーの勝利のあと、日本の新聞は、有名な知識人たちが書いた日本の勝利を賛美し礼賛する多くの種類の文をのせた。彼らもある意味でホッとし、うれしかったのだと、私には分かる。私は[学校から]帰宅して父に言った。「日本の大勝利だ!」と。すると彼は冷静な口調で言った。「いや、日本は負ける。」私は驚いた。頭から冷水を浴びせかけられたようだった。母の反応は面白かった。「そうらしいでんな」と[無頓着だった]。それでおしまいだった。
戦争が終わったとき、私は一三歳だった。私は多くの残虐行為を経験した。アメリカの空襲というかたちでの残虐行為だ。私は大阪にいた。そこで育った。大阪では毎日のように空襲があった。大阪が受けた多くの空襲のうち、もっとも破壊的な空襲は八回。私はそのうち三回を経験した —— それは完全に一方的な破壊と殺戮だった。私たちには空襲に抵抗する力はなかった。軍隊でさえ力がなかった。人びとは何も持っていなかった。こうして私たちは完全に殺戮され、破壊されるようになった。
小田は、戦争中にさかのぼるニューヨークタイムズの紙面のコピーを示す。
ここに大阪がある。これは一九四五年六月一五日の大阪市の写真だ。私はここにいた。この黒煙のなかに。これを上から見れば、ある意味ではきれいな光景だ。しかし、なかにいれば、黒煙のなかの地獄だ。人びとはそこで死んだ。そこに私はいた。それが私自身の経験だ。私はこのような状況を三回経験した。そこで私は考えはじめた。このような破壊と殺戮はなにを意味するのか、と。私たちに抵抗する力はまったくなかった。
大阪市街地への空襲のあいだ、アメリカ軍はどんなふうに「ゼリー状ガソリン」を投下したのか。彼はそれについて書かれたニューヨークタイムズの記事の一つを読み上げた —— 小田によれば、アメリカの全体的な攻撃作戦のなかで、「ゼリー状ガソリン」攻撃の犠牲になった世界最初の都市は大阪だった。米国の大阪にたいする絨毯爆撃の主要な攻撃目標の一つは、大阪の中心の大阪城近くに位置する日本の大武器工場、造兵廠だった(造兵廠は東洋一の兵器工場という評判だったと小田は確言する)。
私の家は造兵廠の近くにあった。一九四五年八月一四日、この兵器工場はアメリカの爆撃によって完全に破壊された —— 日本が降伏する二〇時間前だった。私はそこにいた。猛烈な爆撃だった。標的が大工場だったので、彼らが使ったのは焼夷弾でなく、一トン爆弾だった。巨大な爆弾だ。爆撃機は八〇〇機は来たとおもう。そのうち、六〇〇機が大阪[のこの地域]に来た。彼らはおびただしい数の一トン爆弾を投下した。けた外れの爆発物だった。それによって[この工場は]完全につぶされた。私の家はその近くにあった。
防空壕を掘ったのは私だった。ちゃちなしろものだ。防空壕のなかで、私たちは震えていた。こんなふうに、私は震えていた。空襲は二時間、三時間と続いたが、ようやく終わったので、私は外に出た。私は小さな紙きれを読み始めた。激しい爆撃のあと、雨がやって来た。黒い雨だ。地面がぬかるんだ。このぬかるみから、私は一枚の紙きれを拾い上げた。私は驚いた。日本語で「戦争は終わりました」と書いてあったからだ。これは一トン爆弾と一緒に落とされたビラで、私はこれを読み始め、いわば仰天した。それは「戦争は終わりました。お国の政府は降伏しました」と[いうことばを]見つけたからだ。私はそれを信じなかった。けた外れの爆撃があったからだ。翌日、二〇時間後、日本の天皇は「我々は降伏する」と発表した。
戦争が終わった[とき]、日本人は泣くと考えられていた。私の家族はまったく泣かなかった。多くの人は泣かなかった。[東京の]皇居前〔広場〕で泣いている人びとの写真をみたまえ。しかし、その数は一〇〇人、二〇〇人の少人数だ。そんなものだろう(笑)。国民全体は泣かなかった。彼らは疲労困憊していた。私の母の反応は一般庶民の反応の典型だった「あの人たちは戦争を始めはった。あの人たちは戦争を終わらせはった」と。
これは大変重要な一般庶民の感情だ。私たちが信頼しなければならないのは知識人の感情ではなく、一般庶民の感情でなければならない。私の考えは、いつでも、一般庶民[の見地]から出発する —— これはきわめて大切なことだ。あの人たち、「彼ら」は私たちと相談することなく戦争開始を決定した。そして「彼ら」は私たちと相談することなく戦争集結を決定した!私はいつでもこの種の人びとの心の動きを心に留めている。このことはどの国の国民にかかわっても必要なことだ。あらゆる場所で必要なことだ。[この意味で]私の書くものは他の知識人の書くものときわめて異なる。
小説を書く
小田は最も早い時期に文学的影響を受けた作家として、ギリシア喜劇の作家アリストパネスとアメリカ人作家トマス・ウルフをあげる。この二人の作家は歴史上異なる時代を生きた根本的に異なる作家だったが、彼らは彼ら自身の方法で戦争と愛の問題にとり組んだ。
———それでは、あなたが初めてものを書き始めたのはいつですか。あなた自身の物語を初めてまとめたのはいつでしょうか。
ずっと若いときだった。説明させてもらえば、こうなるだろう。作家としての私は普通の作家ときわめて違う。戦後、私は「もう戦争はない」と考え始めた。莫大な破壊のあと、ついに私たちに平和が訪れた。私たちにとって —— 私にとっても ——、平和は大変大切なものだ。「愚かな連中はもう戦争を起こさない、もう戦争はない」と私は考え始め、これを確信し始めた。そのとき、突然、[一九五〇年に]隣国の朝鮮で戦争が始まった。大阪は米軍兵士の病院のようになった。大阪にアメリカ軍の病院があった。私はこんなことが起きるとは予想していなかった。私は「もう戦争はない」と考えてきたのに。
私は世界の戦争について考え始めた。私はこの世界にはもう未来がないと考えた。世界の状況が信じられなくなってきた。そこで、私は自分の気持ちを書いておこうと決めた。その小説の題名は『明後日の手記』(注2)だ。私はエピグラムにこう書いた。「私たちには明日が信じられない。信じられるのは明後日だけだ」と —— これが私の気持ちだった。こうして私は手記を書き始めた。小説を書く動機としてはとても変わっている!ある意味では政治的だ。私は高校二年生で、朝鮮戦争の日々を記憶していた。その時のある意味の天才は、長じて、普通の人になった(笑)。
———若い作家にとって大変重いトピックだった。
もちろんそうだ(笑)。もちろん。私がいつも取り上げるのは重いトピック、重い問題だ。
『何でも見てやろう』
日本で最も評価の高い高等教育機関の東京大学で教育を受け、二冊の小説(注3)を出版していた小田青年は、一九五八年—一九五九年に、ギリシア研究の学生としてアメリカのハーヴァード大学に行った。アメリカはちょうどビート・ジェネレーションと人種分離の時代だった。小田はそれをまるごと経験した。彼は米国での海外滞在を利用し、のちに世界各地も旅行した。一九六一年、帰国して書き終えた著書が大ベストセラーになった。この著書によって、彼は二九歳で、戦後日本の最も卓越した文学者の一人としての地位をしめることになった。
———ところで、あなたの最初の本は『何でも見てやろう』ですね。
この本は、実際には三冊目の本だ。最初の本は小説で『明後日の手記』。私はアメリカに行く前、すでに小説を二冊書いていた。私はハーヴァードの学生になった。フルブライト奨学金の試験を受けて合格し、アメリカに渡った。一年間ハーヴァードで過ごし、それからメキシコ、ヨーロッパ、インドを旅行した。日本に帰ってきてから、私は小説を出した出版社に顔を出して、「また小説を書きたい」と言った。編集者は言った。「いや、いや、いまはだめだ。第一に、君の小説は全然売れない。しかし、君が話した旅行の話はすこぶる面白い。まず、旅行の話を書かないか」と。ある意味で、私は旅行記を書かされたのだ。
旅行記の表題には愉快な話がある。私はかなり長い旅行記を書いたため、編集者の機嫌はよくなかった。「これまた長いのを書いたな —— 君は書きすぎる!」しぶしぶ本を出すことにして、彼は言った。「どんな題だ。」私は答えた。「何でも見てやろう。」彼は驚いてこう言った。「なんとも大それた題だ。もっと謙虚な題のほうがいい」(笑)。この題は大きすぎる、大それている、傲慢だ。そこで私は「じゃぁ、あなたが題をでっちあげてくれ」と編集者に言った。ところが彼は題をでっちあげられなかった。とうとう彼は、私の題を採用することに決めた(笑)。この本がベストセラーになるだろうとは、誰も考えていなかった。
———これがベストセラーになった理由はなんですか。
理由は大変簡単だ。まず、旅行記だったからだ。彼らは —— 日本人は —— 世界を見たいと思っていた。同時に、私は[本のなかで]、どの国にもそれ自身のよいところがあると強調した。当時の日本人は、日本がよい国ではないと思っていた。貧しく、劣等で、日本ではなにもかもよくない、と。
———とくに戦後はそうだった。
だから私は書いた。「よいところもあるし、悪いところもある。どの国も同じだ。私たちは自信をもったほうがよい」と。このような論理、このような考え方が人びとにアピールした。このような気持ちは、[当時の]韓国人にもアピールした(注4)。大変奇妙だが、ある意味で当然のことだ。
ベトナムとべ平連
日本のベストセラー作家としてたちまち有名人になった小田だったが、彼が、彼自身の子ども時代の第二次世界大戦の記憶と、若き理想主義者として感じた朝鮮戦争への絶望に直面するのに長くかからなかった。合州国は、小田の本がベストセラーになった一九六〇年代初期にはすでに、東南アジアの国ベトナムと戦争を始めていた。ベトナムでは、第二次世界大戦中に小田の生まれた大阪に米軍が使用したといわれる「ゼリー状 ガソリン」が世界中によく知られた名前になっていった —— それはナパーム弾だった。
日本社会では、米国のベトナム戦争に憤激する世論が沸騰した。小田はこれに一役かった。一九六五年、彼はべ平連という名前のほうがもっと有名な、「ベトナムに平和を!市民連合」と呼ばれる草の根のゆるい運動組織を始めた。人びとは日本中で地域のべ平連を組織し、彼らの反戦のメッセージは街頭に、地域社会に、日本企業の役員室に届いた。べ平連を支持する人びとは、日本の基地から無許可離隊(AWOL)したアメリカ兵士をかくまって保護し、海外に送り、ベトナムで戦争することを回避させた。
———あなたのべ平連での活動に焦点をあてたいと思います。当時、日本の社会では、ある意味でべ平連はまったく革命的運動でした。あなたはどのようにべ平連にかかわったのですか。べ平連の意義はなんでしたか。当時の日本をどう変えましたか。
おそらく、これは人びとの一種の自発的運動だった。イデオロギーに支えられない、イデオロギー指向でない運動だった —— まさに自発的な反戦運動だった。人びとは私を含めて、ベトナムでの戦争に怒った。私の出発点は、私の戦争体験だ。このような破壊された写真だ。それから長い年月がたち、私は自分の位置を見つけ出し始めた。私は少年のとき、このような「黒煙」のなかにいたのだが、それが見えなかった。私はそのとき、歴史を見つけ出していなかったのだ。しかし、長い年月がたち、私に歴史が見え始めた。私たち日本人は、中国の諸都市に多く爆撃を加えた —— 数多くの都市に。南京やその他の都市に。
私は少年のとき、このように上から[見下ろす]のと同じ写真を見た[と、彼はニューヨークタイムズの紙面を指し示した]。私たちは映画館に行って、日本がこのように爆弾を落としたニュース映画を見たが、そのとき、ここにあるような黒煙が上がっていた。私はそれを見てなにも感じなかった。私はただ見ているだけだった。おそらく、アメリカの少年も、ニューヨークタイムズに載ったこのような写真を見て、黒煙のなかで何がおきているのか、何も分からなかっただろう。私も同じだった。少年のとき、私は多くの写真を見たが、何も感じなかった。日本海軍の飛行機の勝利を考えたわけではなかったが、何も感じないで見ていた。しかし、[黒煙の]なかにいたとき、状況はまるきり違っていた。
ベトナム戦争のとき、北爆が始まり、そのとき私はテレビで写真を見た。投下された爆弾で黒煙が上がっている写真だ。ある意味で、{傍点始}私はそこにいた{傍点終}。私にはベトナム人の大きな苦しみが見え始めた。そこで、私は他の人びとと一緒にベトナム戦争反対の運動づくりにとりかかった。私の動機は、私が[戦争の]被害者という経験をしたからだ。同時に、爆弾を投下したアメリカの役割 —— 犠牲者を生み出す〔加害者〕の役割 —— が見え始めたからだ。こうして、私はべ平連の運動づくりにとりかかった。
私には自分自身の意志に反して徴兵されたアメリカ兵に大きな共感があった。彼らはベトナムに行き、人びとを銃で殺さなければならなかった。これは[第二次世界大戦のときに]中国で戦った日本兵の状況と同じだった。徴兵された彼らは、それゆえに、中国人と戦い、彼らを銃で殺さなければならなかった。私たちはこのような悪循環から脱しなければならない、と私は考えた。日本は、[ベトナムでは]合州国のしぶしぶのパートナーだった。日本人は日本が合州国のパートナーの役割をはたしていることを喜ばなかった。しかし、私たちは合州国の圧力のもとで、安保条約のもとで、その役割を強いられた。こんにちでも状況に変わりはない。
だから、私たちは合州国と日本のあいだのこの悪循環から脱しなければならない。これが出発点だった。ところが、日本政府は[米国の将軍]カーティス・ルメイに勲章を、最高の勲章をさしあげた ——[一九六四年に]天皇がみずからさしあげた。日本政府から勲章をもらったあと、ルメイはベトナムを石器時代にもどしてやる、というようなことを言って北ベトナム爆撃を始めた。きわめて皮肉なことだ。
———べ平連はただ日本の社会の目に見える状況を変えただけではなかった、多分社会の内部でも、人びとは変わって行った。
私もそう思う。いずれにしても、べ平連は自由な運動で、イデオロギーに指図される運動ではなかった。人びとは完全に自由に集まった。これは初めてのことだ。社会党、共産党と一緒に〔運動〕するものもいたし、[与党]自民党からの参加者があった。まったくかまわなかった。
(1)本インタビューはフリー・ジャーナリストのブライアン・コバートBrian Covertによる小田実へのインタビューで、San Francisco Bay Area Independent Media Centerのウエッブサイトに第一部、第二部と二つに分けてのった。
・第一部のインタビューは https://www.indybay.org/news/200603/1807676.php
・第二部のインタビューは https://www.indybay.org/news/200603/1807672.php
で閲覧した。
(2)この処女作は一九五一年に河出書房から出版された。
(3)二冊目の小説は『わが人生の時』(河出書房、一九五七年)。
(4)当時、小田の知らないあいだに韓国で「海賊版」の訳が出ていた。読者からの手紙が彼に来た。