黒煙のなかで

作家で平和活動家の小田実との対話[パート3]

差別のオリンピック
小田は長年にわたって日本語で何十冊もの本を書いているが、そのなかで、英語に翻訳された著作が『The Breaking Jewel』と『H: A Hiroshima Novel』(『The Bomb』(注9)という表題で出版された)の二冊しかないのは驚きである。しかし、このいずれの著作にも人種差別と民族差別という共通したサブプロットが流れており、これは小田が強い関心をもつ問題である。『H: A Hiroshima Novel』では、のちに日本に落とされることになる原爆を製造する過程で、日本人による朝鮮人差別と同時に、白人アメリカ人による先住アメリカ人差別、黒人差別、日系アメリカ人差別がサブプロットになっている。『The Breaking Jewel』のサブプロットは、アメリカ軍と戦う大日本帝国軍隊に志願した熟練の朝鮮人兵士、金(こん)伍長にたいする日本人による差別である。

———『玉砕』に登場する金伍長と日本にいる朝鮮人についての話をしましょう。最近の日本では、朝鮮人はどんな扱いをされているのか、少し話していただけますか。

まず最初に、私の妻は朝鮮人だ。状況は変わってきつつある。差別やそれに類したことがらについて言うと、概して、状況は好転してきていると私は考えている。そこで、日本はいま、きわめてよい方向に向かっていると言えるだろう。しかし、同時に、[日本人のなかで]国家主義的な気分が強くなってきている。

韓国人について言うなら、日本側は両国関係について、韓国人が騒がなければ関係はきわめてうまくいっていると考えている。両国関係を一〇年前、二〇年前と比べるなら、多少はよくなっていると言えるかもしれない。しかし、もしもあなたが韓国人で、韓国大統領がいま[日本の首相]小泉純一郎の靖国神社参拝を遺憾だと言っているように、これに何か文句を言うとすれば、「おまえはそれほど善良ではない」と彼ら[日本人]は考える。アメリカ人の場合と似ている。アラブ人や国内にいるアラブ人がおとなしければ、「善良な民族だ、よい民族だ」と[アメリカ人は言うだろう]。これが万国共通のことばだ。フランスの移民の場合も同じだ。移民が主要政策についてやかましく言わなければ、社会の主流は移民を同等の国民として扱う。彼らはまあまあの取り扱いをされる。

中国人を例にとって話す。中国人は日本人の過去にたいする態度についてはるかにやかましい。いま、彼ら[中国人]はやかましく騒いでいる。・・・たとえば、あなたがトヨタの車に満足し、これを優秀な車と考えているなら、それはOKだ。この関係はほかの国の場合と同じだ。フランス、アメリカの場合も同じ。日本は進歩して、アメリカの差別、フランスの差別の段階に達したと言えるのかもしれない(笑)。私のいう意味がわかるかね。

———ええ。興味深い話です。しかし、同時に、日本の若者と話すと、彼らは「否、日本には差別はない」というでしょう。日本の若者でさえ、朝鮮人にたいする差別がいくらかあることを認めない。これについてはどう思われますか。

同じ質問を考えてみよう。私がこの質問をアメリカの若者にぶつけるとする。彼らは「ここには差別は一切ない。日本を見ろ!」(笑)と答えるだろう。多くの外国人ジャーナリストが私に朝鮮人差別、[日本の階層被差別民の]部落民差別などについて質問する。もちろん、差別があることは間違いない。もちろん、私はこのような批判を受け入れる。しかし、私はいつも彼らに、「あなた自身の国の差別について、何をしているのか」と質問する。私はあるイギリス人ジャーナリストに、ロンドンのインド人差別についてこういった。「君がこの問題で何かしているのなら、私は君と話ができる。君は何もしていない。だとすれば、よろしい、君はただ上位に立っている、それだけだ。日本は差別の問題では「後進国」だ。君がロンドンの人びとのあいだの偏見にであったとき、何かしているのなら、君は私の偏見について語ることができる —— 私たちの偏見について、君の偏見について語ることができる。私たちは話ができ、同じ論点が見いだせる。ほんとうの話ができる。しかし、そうでなければ、それは一種の「差別のオリンピック」——「[人種]差別のオリンピック」だ。

日本人ジャーナリストの側にも「小田さんはここ日本にある朝鮮人差別、部落民差別につて語りますが、アメリカのすさまじい黒人差別を見て下さい。フランスの移民を見て下さい」という気持ちがある。〔彼らも外国人ジャーナリストと〕似たようなものだ。しかし、日本人ジャーナリストたちも何もしない。言うだけだ。これは何を意味するのか。それは、私たち[日本人]は「上に立っている」というような、愚劣なことを意味する。私はこの種のオリンピックは好きでない(笑)。日本は進歩して、米国、フランス、あるいはイギリスの差別と同程度の域に達している。もはや素朴な差別ではない。五〇年以前、六〇年以前、[日本には]きわめて露骨で素朴な差別があったが、いまではずっと進歩し洗練された差別がある。これと同種類の差別は、米国でも、フランスでも、ドイツでも見いだすことができる。

———それでは、あなたは——私たちは——、日本のなかとそとにあるこの種の「洗練された差別」にどう対処するのですか。

この国のそとで、同じ問題に直面している人びととほんとうの話をしたいね —— ロンドンで、ニューヨークで、サンパウロで、ドイツで差別の問題に直面している人びとと話をしたい。私たちはほんとうの話ができる。私たちは同じ状況を見いだし、この状況をどう解決するかという方法を見いだすことができる。このときに、この種のほんとうの話は必要である。そうでなければ、これは時間の無駄である。たんなるおしゃべりだ。

———少し前、ご夫人の話が出ましたが、あなたがどのように差別の問題を意識するようになったのか、私は大変興味があります。ご夫人とお会いになる前、日本人の朝鮮人差別の問題をあなたはどのように知り、意識されるようになったのですか。その後、ご夫人からどんな影響がありましたか。

大阪には朝鮮人があふれていた。部落民もいた。戦争中、私は少年だったが、[日本人は]あからさまに朝鮮人を差別していた。当時、部落民差別もあからさまだった。洗練されていない —— 露骨な差別だ。私はそういう場面に出くわした。私はその種の愚劣なことは嫌いだった。「内なる反差別の動き」とでもいえばいいか。それが芽生えたのは私の少年時代、子どものときだった。私はその種の愚劣な差別にたくさん出くわした。

そしてまた、私は米国で黒人差別に出くわした。私は北部の学生だったが、そこには明白な黒人差別はなかった。当時、南部に行った日本人留学生はそれほど多くなかったが、私はバスに乗り、南部に行こうと決めた。そしてけたはずれに露骨で明白な黒人差別[の事例]を知った。ある意味で、もちろん、私も差別されているのだという気がしはじめた。たとえば、南部では当時、白人と黒人の結婚ばかりでなく、日本人と白人の結婚も非合法だった。私はその種の問題に出くわした。

たとえば、私は待合室の「白人」区域へ行かなければならなかったが、私は「有色人」だった —— 奇妙だった。北部では、やり方がもっと巧妙だった。私はある女性と話していて、たまたま髪の色が話題になった。いまでこそ私の髪は白いが(笑)、そのときは黒かった。「私の髪は黒い( ブラック)」と私がいうと、その女性は「違います。あなたの髪は暗い( ダーク)」といった。私はその意味を理解した。これは差別だと。黒人の運動が力をもつまで、人は「暗い」と言ったものだ。「黒い」はよくないことばだった。のちになって、「ブラック・イズ・ビューティフル」という言い方が出てきた。しかし、当時は「あなたの髪の色は黒くない、暗い」と微妙な言い方をした。私は意味することが判った。これは差別だ。私は差別されたと感じとった。私は日本から来たおろかな紳士ではなかった。私は二年の米国滞在をふまえて、[一九六二年に]黒人と日本人と白人の関係について『アメリカ』という小説を書いた。まず第一に、私はそれがどんなものであれ、いかなる種類の差別にも反対だ。

———すくなくとも、大学時代のあなたは日本社会のエリートの世界に進みました。日本でも米国でも、あなたは最高峰の大学に行きました。その世界から外に出て、現実に生きている人びとに出会うよりも、その世界に順応してそこにとどまれというプレッシャーは感じませんでしたか。

そもそも、それほど大きな圧迫感は感じなかった。私の家族は大変リベラルな家族だった。当時、私がもうすこし年齢が高ければ、父や母に「私は朝鮮人と結婚する」と言ったとしても、「ああ、そうか、わかった」(笑)と言っただろう。そんな家族だった。即座に「よろしい」とは言わなかったかもしれないが、一時間もたてば、「わかった。そうやれ」[となった]だろう。それが彼らのリベラリズムの振りはばだった。

「平和憲法」九条
小田実をはぐくんだのは、家事を切り盛りする母と弁護士の父という開放的で偏見のない家庭環境だったが、これが彼のその後の人生を大いに決めることになった。一九八九年、小田は小説『HIROSHIMA』でアジア・アフリカ作家会議のロータス賞を受賞した。一九九五年一月一七日、神戸と(彼が住む)その周辺地域を襲った阪神大震災によって、六〇〇〇人以上の死者が出たが、それにもかかわらず、日本政府がまったく動かなかった怠慢を小田は厳しく批判した。彼は地震の被災を大義名分として取り上げ、被災者に公的財政援助を与える法案を起草し、成立のために助力した(その後、小田は兵庫県知事として立候補してほしいという地域住民の求めを丁重に断った)。一九九九年のNATOのユーゴスラヴィア空爆後、小田は多くの国で兵士が個人として良心的兵役拒否者になっているのとちょうど同じように、日本は戦争や戦争の支持を拒否する「良心的兵役拒否国家」になるべきだとアピールした。二〇〇一年九月一一日の自爆攻撃後には、アメリカのアフガニスタン侵略とイラク侵略の前と後のいずれの場合も、彼は戦争反対の声を挙げた最も著名な人物の一人だった。

小田にとって「戦争反対」は「憲法賛成」と同義である —— とりわけ、日本国憲法第九条の擁護とこれを国際的規模で適用することは同義である。この目的のため、二〇〇四年夏、小田と(ノーベル賞受賞者大江健三郎を含む)著名な学者たちは「九条の会」を立ち上げるのに助力した。

第二次世界大戦の廃墟のなか、一九四七年に起草された日本国憲法第九条は日本の  永久的な戦争放棄と軍備禁止を定めている。二項からなる第九条は次の通りである。「(1) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

第二次世界大戦の結果、日本に憲法のこの条件を受け入れよと強制したのはアメリカだったが、アメリカの冷戦戦略のもと、実際には、日本は自衛隊という軍隊を復活させた。二一世紀のこんにち、自衛隊は、日本周辺の米軍基地にいまなお駐屯している推計五万人の米軍兵士を補完するようになっている。とりわけ最近の数年間、日本の第九条「修正」にたいする米国からの圧力がますます強まっている。世界中のアメリカの戦争を支援するために、日本があきらかにより大きな軍事的役割を演じることができるからだ。結果として、これを書いている時点で、日本はイラクのサマワに何百人もの自衛隊の部隊を駐屯させている。日本の世論は第九条の改正に強く反対しているが、小泉純一郎首相と(日本のネオコンの狂信的支持を得た)与党・自由民主党のもとで、日本政府のなかの親米派は第九条、すなわち、日本の戦後憲法の戦争放棄条項を徐々に弱体化させる方向に向かっている。

———第九条の話に移ります。日本はいま再び、アメリカの圧力のもとで、かつての軍事大国の立場に戻ろうとしている。もちろん、日本人はこれを理解しています。あなたと共有しておきたい興味深い点が一つあります。日本外国人記者クラブの代表 ——[ロイター通信社の]若いアメリカ人記者です —— がこう言っています。日本人は第九条にあまり関心がない、彼らは第九条よりも消費税に関心がある、と。私は彼の意見に同意しませんが、しかし、このような考えになにか真実がありますか。

この種の論理に答えるのは大変むずかしい。この国では、平和は一般に是認された思想、一般に是認された事実だ。ここでは平和はきわめてありふれたものである。他の国々の平和とはきわめて異なる。米国の自由についていえば、アメリカ人は彼ら自身の自由を意識しているだろうか。

———おそらく、当然のことだと受けとめています。

その通りだ。ここではいま、平和は当然のことだと受けとめられている。だから、日本人は平和に関心がないように見える。もしも徴兵制があれば、人びとは戦争や平和について考えなければならない。しかしここには徴兵制はまったくない —— 理論的にいっても、法的にいっても、軍隊はまったくない。もちろん、これはまやかしだが、人びとは軍隊はまったくないと考えている。人びとが軍隊に行く必要はまったくない。それほど平和は当然のことだと受けとめられている。一方、消費税はきわめて直接的な問題としてある。だから、この種の論理が正しいか正しくないか、答えるのは大変困難である。しかし、とにかく、私たちが集会を組織すると、多くの人びとが集会にやってくる。これは彼らが[第九条に]関心をもっていることを意味している。

———私もそう考えます。にもかかわらず、私の考えでは、主流メディアの観点から見ると、大部分の人は平和に無関心のように見えます。彼らは街に出てデモをしません。毎日の生活を送っているだけです。

多くのメディアは平和についてのニュース、私たちの活動についてのニュースを報じない。私たちの活動について多く報道するのは「赤旗」(日本共産党の新聞)だけだ。多くの[メディア]人はこれに関心をもたない。このことはまず第一に、ジャーナリストが平和に関心がないことを意味している。

———もしも戦争なら、彼らは報道するでしょう。しかし、平和にはニュースになるほど大きな動きがない。

その通りだ。平和がそれほど当然のことだと受けとめられている。ジャーナリストはいつも「イタリアでは百万人が[デモ]しているが、ここではたった百人だ」というようなことを言うが、私はこう言う。「君らが書かないのだ!君らはイタリアについて書く、米国について書く!だが、私が日本で組織する団体、運動、デモについては書かない」と。彼らはデモに来ない。これが現状だ。私はこのことで文句を言うつもりはない。言えば、次から次へ言うことになる。

———人びとは平和の問題を新聞で読まない。だから、問題はないことになる。これが問題だ。

しかし、状況は一夜にして変わり得る —— この国でも同じだ。何か起きれば、人びとは変わる。あらゆることは永久には続かない。変わる。

現在と将来の戦争
———最後にいくつかの考えをおききします。私たちは多くのことを話してきました。いまの日本が進んでいる方向をどうご覧になっていますか。また、将来の国際社会における日本の遺産は何であるべきですか。

日本がいま進んでいる方向は大変悪い。若い世代は、小泉純一郎[首相]を含めて、日本の軍事的防衛は可能だと考えている。しかし、私は自分の戦争体験から、リアリストの観点から見て、日本は防衛が可能だとは考えない。戦争が終わりに近づいたころ、日本にはまず、食べ物がなかった。[私たちが]食べられるものがまったくなかった。戦争がもしあと六か月長く続いていたら、私は死んでいただろう。多くの人が死んでいただろう。日本の食糧事情を見たまえ。日本は国内で消費される食糧の四〇%しか生産していない。日本は六〇%を輸入せざるをえない。フランスの食糧生産は一三〇%、ドイツは一〇〇%だ。もし戦争が起きれば、日本は何も輸入できない。だから、私たちは飢えと栄養失調で簡単に死んでしまうだろう。これが戦争から得たナンバー・ワンの教訓 —— リアリストの観点から見ての教訓だ。

第二に、日本はガソリン、石油を産出しない。戦争が終わりに近づいたころ、一三歳の少年だった私は、石油不足のために飛べない飛行機を目の当たりにした。私たちは松の木の根っこを掘って松根油にした。石油がなければ、タンクは動けないし、飛行機は飛べない。まったく簡単なことだ。だから、このことは、日本はいまでは戦争ができない国だということを意味している —— 米国とはまったく事情が違う。フランス、ドイツ、イギリスともまったく事情が違うのだ。

リアリストの観点から見て、日本は平和国家だ。日本はまず、平和を維持すべきである。私たちの憲法はそう言っている。私たちは平和に執着しなければならない。第九条は、「私たちは戦争することを欲しない。私たちには防衛戦争でさえ不可能だ。だから私たちは、交渉や平和的手段によって世界を変えなければならない」という、世界に向けての重要な誓約である。

第九条が需要なのは、[国の]そとにたいして戦争をしないということだけではない。ここでは防衛戦争ができない。しかし、小泉純一郎や自由民主党の若手国会議員 —— あるいは民主党の前原[誠司]というような人びと —— は、「私たちは戦争ができる」というようなことを言っている。しかし、私は彼らが夢想家に見える。私はリアリストだ。まず第一に、リアリストであるべきだ。これは大変重要なことである。そしてこんにちの世界状況を見てみると、いまや、戦争によっては —— イラクにおいてでなくても ——、平和をつくりだすことはできない。世界最大、世界最強の国のアメリカでさえ、テロリストの活動を止めることができない。日本にそんなことは不可能だ。これは大変にリアリストの視点だ。ある意味で、私はきわめてリアリストで、彼らは夢想家だ。

そのため、私たちがこの憲法を保持すること、それが私の重要なポイントである。戦後日本の基礎は平和憲法にある。これは夢想家の観点からではない。リアリストの観点から言っているのだ。

———的を射たポイントです。結局、戦争は究極的な夢想、究極的な幻想なんですね。

小説『玉砕』はまさにその点をついていた。どんな戦争も間違っているということ、それが『玉砕』の結論だ。これはきわめて重要だ。

———最後の質問です。あなたは第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争を経てこられました。いまや新しい世代はこれらの問題にとり組まなければなりません。若い世代は、彼ら自身の第二次世界大戦やベトナム戦争〔という問題〕に直面していますが、あなたから彼らにメッセージがありますか。彼らはこの問題をどのように対処していますか。

現在の戦争と将来の戦争[をあわせて]直面しなければならない。[日本国]憲法の前文はきわめて重要である。そこには多くのことが述べられている。前文は世界の状況を変えなければならないとはっきりと言っている —— 戦争によってではなく、平和的な手段で変えなければならないと。[二〇〇一年九月一一日]ここでテレビを見ていたとき、世界貿易センターに飛行機が突っ込むのが目に入った。即座に、子どものときのカミカゼ攻撃を思った。「これはカミカゼ攻撃だ」と、私は自分に言った。当時、そんなことを言った人は誰もいなかった。即座に、私は「これはカミカゼ攻撃だ」と考えた。私たちは[第二次世界大戦のあいだ]これと似たようなことをしたのだ。

そして、私はこの短い文章を日本の新聞に書いた。私はこう書いた。「まず第一に、私たちはリアリストであるべきである。私たちには戦争ができない。防衛戦争さえできない。しかし同時に、私たちは世界の状況を変えなければならない。そうしなければ、テロリストの活動はいつでも起きるだろう。自殺攻撃も起きるだろう。しかし、テロリストの活動をやめさせるためには、彼らを軍事力を使って制圧することではできない —— できるのはその他の手段、平和的な手段[だけ]である。これはきわめて重要だ。大東亜戦争から得たのは]この教訓だ。

平和憲法はきわめて重要である —— 日本人にとってだけでなく、世界全体にとって重要だ。それが私の考えである。私はそういう気持ちで『玉砕』を書いた。
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注:
(9)原著は『HIROSHIMA』(講談社、一九八一年)。英語版はMakoto Oda, 『The Bomb』(translated by D. H. Whittaker, Kodansha International, 1990) として出版されたが、のちに表題を変えたペーパーバック版、『H: A Hiroshima Novel』(Kodansha International, 1995) が出た。
*( )と[ ]は原テクストの挿入。原テクストでイタリック体の箇所は傍点で示した。〔 〕は訳者の挿入。
**インタビューの翻訳は『9.11と9条 小田実 平和論集』、大月書店、2006年、 455〜478ページから転載した。


・この小田氏とのインタビューの抜粋は齋藤ゆかり氏らによりイタリア語訳されており、こちらをクリックするとご覧いただけます。
DENTRO AL FUMO: a Colloquio con Makoto Oda, Scrittore e Attivista