日米におけるメディア比較考察 [パート1]
ブライアン・コバート
はじめに
こんにちは。私はブライアン・コバートと申します。本日のトピックは「日米におけるメデイア比較考察」です。この話は日本におけるジャーナリストとしての私の経験に基づくものであり、私の米国での経験と日本での経験を比較したものでもあります。
私はカリフォルニア州立大学でジャーナリズムを学びました。ジャーナリズム学部にあるいくつかの学科から報道編集を専攻し、1984年に卒業。カリフォルニア州の新聞社に勤め、その後、週刊紙の編集者として働きました。
日本に新聞社での働き口を探しにやってきました。私が日本に来た主な理由は、新聞社の仕事をするためでした。コネは全くなく、日本語も話せませんでしたが幸運なことにジャパン・タイムズの仕事が見つかりました。1987年はジャパン・タイムズ大阪支局が開局して、そこで働く記者を探していました。よって私はジャパン・タイムズの関西地区に勤めた最初の記者になるわけです。その後、ジャパン・タイムズを辞めてUPI大阪支局に移りました。UPIは共同通信のような通信社です。UPIにはもちろん東京に本局があるのですが、初めて大阪にも記者を持つようになったわけです。
それから、毎日新聞の英語版である毎日デイリー・ニュースに移りました。そして、毎日新聞のライバルの読売新聞の英語版であるザ・デイリー読売に移りました。読売新聞を昨年退職し現在はフリー・ジャーナリストとして活動しています。
日本に来たことは私に1人のジャーナリストとして素晴らしい経験を与えてくれたと思います。米国にいた時には出会わなかったような経験もたくさんしました。日本におけるジャーナリズムの実際の在り方は米国のそれとはかなり異なっているので、私にはどちらが正しくてどちらが間違っているかなどは言えません。どちらにも長所と短所があります。しかし、お互いに理解しあうことができます。日本のジャーナリズムは米国のジャーナリズムの間に多くの共通点があるといえると思います。
歴史的、文化的な差異
日米間の歴史的な差異と文化的な差異について少し述ベたいと思います。
歴史的に見ると報道の自由は合衆国憲法で保障されていますが、米国のマスメディアは建国当初からその責務を守るために戦ってきました。なぜなら政府はマスメディアに対して抑圧的であり様々な規制をしようとしてきたからです、そして今なおマスメディアと政府の関係は犬猿の仲です。
それに比べて日本の最初の状況を考えると、少し違ってきます。なぜなら占領軍によって与えられるまで日本の憲法には報道の自由はなかったものですから。とにかく日本における報道の自由というのは一種の手荷物のように押しつけられたものなのです。「はい、どうぞ。報道の自由ですよ」といった具合に。だから厳密に言うと日本のジャーナリズムは米国のものとは全く異なったものなのです。
米国ではジャーナリズムを権力の抑圧から守ろうとする視点があります。それが必ずしもよいとは限りませんが、それでもやはり日本のジャーナリズムにはそうした視点が欠けていると思います。私たちは出来るかぎり報道の自由を守らなければなりません。しかし、日本にはそうした精神が十分にはありません。あったとしても見られません。
しかし、日本のジャーナリズムと米国のジャーナリズムにはスタイルの違いこそあれ、我々ジャーナリストはどの国であれ同じ根底をもっています。我々は同様の義務を負い、政府の政策などにどのように接するかについて同じような態度をとるべきなのです。私が言いたいのは、米国であれ日本であれどこの国のジャーナリストも、それぞれの違いよりも共通点を多く持っているということを覚えておくことです。これは非常に大事なことだと思います。同じルールを持ち、同じ態度をとるのです。
同時に私は必ずしも米国や西欧のジャーナリズムのスタイルが一番だとは信じていません。なぜなら日本と米国、西欧では歴史的、文化的背景が違うからです。日本のジャーナリストは日本独自のスタイルを見つけるべきです。そしてまたジャーナリストは外部からの、または諸外国からの圧力によって押しつけられるのではなく、自分たちの社会への責任と義務を判断しなければなりません。
だからあなたたちのようにこれからジャーナリストになろうと考えていたり、マスメディアで働こうと思っている人の責任は重大です。日本のジャーナリズムに限らず、全ての国のジャーナリズムがうまく機能するように、全てのジャーナリスト、特にこれからジャーナリズムの世界に入っていこうとする若い人は、ジャーナリズムをよい方向に変えていくのに非常に重い貴任をもっていると思います。
ジャーナリズムの役割
「民主主義社会におけるジャーナリズムの役割」については、その重要な役割として、権力から独立した「番犬」としての役割があります。これは政府の役割とは全く違います。政府は社会を暴力などが起こらぬよう秩序の維持に務める責任を持っていますが、ジャーナリズムの責任はそうしたものではありません。
次に「社会に影響を与えている問題について積極的な声をあげていく」は、ジャーナリズムやマスメディアが社会の出来事を、ただ距離を置いて伝えるだけでなく、その一部となって情報を伝え、前向きな改革的な方向への声をあげていくことです。
「当局に対する健全な懐疑主義を維持すること」についてですが、これはジャーナリズムにおいてとても重要な点だと思います。米国でも日本同様、当局に疑問を投げかけずに追随する傾向が強まってきています。それは大きな間違いだと思います。なぜならそれは権力の番犬としての役割に相反するからです。マスメディアで働いているジャーナリストの中には、皮肉的で懐疑的な人が大勢います。それはそれで構わないと思います。しかしあまりにも皮肉的、懐疑的になりすぎてはいけません。常に自分の中で問題について疑問を持ち続けることが大切です。
「声なき声の代表となる」は、これも重要な役割です。これは他の国よりも米国で一般的です。我々は自ら意見を表に出す手段、機会に恵まれない人々、すなわちマイノリティの意見を見つけ、探し、伝えるべきです。これは米国でも日本でも非常に重要な役割です。この考え方は当たり前のように思われていますが、もっと深く考える必要があります。
「倫理的な自由な情報の流れの促進」についてですが、マスメディアが手に入れた情報を何でも自由に伝えていいということではなく、倫理的にということです。
その報道倫理についてですが、米国でもここしばらく議論されている問題です。なぜなら質の低いジャーナリズムが行われているからです。例えば O・J・シンプソン裁判などは報道が過剰であり、あまりにも関係者が多く報道の仕方がよくないなど、たくさんの問題があります。TBSのような例もあります。そのため、いかにしてジヤーナリズムを改善するか、そのためにどうすればよいか、が重要な課題になっています。
ジャーナリストのための指導綱領を見てください。米国の新聞や雑誌、TV、ラジオなどで働く職業的ジャーナリスト協会によって作成されたものです。これは法律の本ではありません。これは事例を集めた本で、ジャーナリズムをいかにして改善していくかを研究するための本です。新聞や様々な会社に所属している人々が集まってそれぞれの経験をまとめて大いに役に立つこの本を作り上げました。私はこれを浅野先生に贈りましたので、研究室で見ることができます。
最初のポイントを見てください。「真実を追求し、できるだけ完全にそれを伝えること」これが最初のポイントです。「真実とは何か。ある人の真実は、他の人にとっては嘘かもしれないじゃないか。それなのに、どうやって真実を見つけるんだ」という人がいます。そしてまた真実と事実の違いもあります。何が真実であるかを見つけるのは非常に複雑なことです。
しかし、事実と真実の違いについて言うならば、いわゆるジヤーナリズムにおける「5W」のうち「いつ、どこで、だれが、何を」(who, what where, when) ということについて言うのは事実です。しかし表面には現れない「なぜ?」(why?) を見つけるのが真実を見つけるということなのです。これはとても大きな違いです。真実を追求するというのは、あらゆる事件や問題の背後にあるなぜ物事がそうなのか、またどのようにそうなのかを見つけることなのです。
次の点「独立した行動を取ること」についてですが、政府が我々市民にとってよいと思ってやることは必ずしもよいこととは限りません。また政界には多くの腐敗があります。そういった腐敗を発見することがジャーナリズムの義務の一部であり、腐敗ということだけではなく、一般的に政界で何が起こっているかを市民に知らせることも必要です。
最後に「報道による被害を最小限にすることを心がける」について、自分の行動によって影響を受ける人々の境遇に思いを寄せること、情報源、被容疑者を慎重に扱うこと、自分がほしいものを得るために使う物のようにではなく、敬意をもって人間に接することです。つまり「被害を最小限に抑える」というのは人間を尊重すると同時に物事を深く掘り下げて最高の仕事をすることです。ジャーナリストは常に誰かの生活を侵害する可能性があるということを覚えておかねばなりません。
客観報道
次は「客観報道」についてです。客観報道とは何でしょうか。どうすることでしょうか。これはジャーナリストにとって重要なことです。ジャーナリストの中には「客観報道なるものは存在しない。なぜなら我々の住む世界は客観的な世界ではないからだ。実際我々は真に主観的な世界に暮らしているじゃないか。例えばある人が今日はいい天気だと言っても他の人にはそう感じないかもしれない。だから事実とは個人の意見、ものの見方によるものだ」と信じている人もいます。確かにこの世の中は主観的な世界です。しかし、主観的な世界において客観的にはなり得ないのでしょうか。それこそジャーナリストとして我々が自分自身に問いかけねばならないことなのです。
このような問いに対して、客観報道というのは手段であると答えることが非常に大事だと思います。我々がそうするための手段であると。たとえ我々がそれに到達できないとしても、我々はできるだけそれに近づく努力をしなければならないのです、そして、それこそがジャーナリストとしての我々の仕事なのです。たとえできなかったとしても、です。
同時に客観的であるということは、少なくとも記事の内容に整合性をとること、意見を入手し、あらゆる情報源から情報を得ることを意味します。それができて初めて客観的であるといえます。また一つの情報源だけから情報を得て意見を形成することは、調和が取れていないので良いジャーナリズムとは言えません。
情報源についてですが、特に日本では情報源を明示しないことが当たり前になっています。例えば記事に「誰々の話である」とか「何々という話である」とか「何々が明らかになった」と書かれているものが普通になっています。私は「何々である」という報道に接する度に、一体、誰からそれを習った(it was learned)と尋ねるのですが、答えを得たことはありません。私はこういったことはもっと明らかにすべきであると思います。なぜなら読者はどこからニュースを得ているのか知る必要があるからです。読者が、自分が読んでいる情報を信用できないときは、ジャーナリストは信頼や信用を失う危険性があります。
我々はできるだけニュースソースについて明らかにしなければなりません。すでに述べたように我々は人物の名前についてもできるだけ明らかにしなければなりません。しかし名前を出すことでその人物の生命や仕事などを失う危険がある場合などはその例ではありません。ジヤーナリストとしては何を知っておくべきか、どこまで書くかといった危険のバランスを取ることが必要です。そしてそれについては慎重でなければなりません。ゆえに情報源を隠すということはまさに最後の解決法なのです。