現われし息子、眠りし母


ブライアン・コバート

顧みれば、過ぎ去った2008年は様々な意味で記に残る年だった。私個人としては、一つの時代の始まりと別の時代の終焉を告げる、二つのニュースが忘れられない。どちらもアフリカ系の人に関するものであり、真に国際的な広がりをもつニュースであった。一つ目のニュースは画期的な出来事と受け取られ、どの国のメディアでも取上げられた。もう一つのニュースは、一つ目に比べほとんど重要視されず、報道されたとしても非常に小さな扱いだった。しかし、この二つ目のニュースなしでは一つ目のニュースはあり得なかったと私は思うのだ。

先祖が準備をする

お分かりの通り、一つ目のニュースはバラク・オバマがアメリカ合衆国の大統領に選ばれたことである。オバマは今月アフリカ系アメリカ人として初めて大統領に就任する。オバマは世界が経済と環境の両面で崖っぶちに立っている時代に大統領の任に就く。しかし、世界中がオバマ —— そしてアメリカ合衆国という国を注視している —— 果たして、私たちは皆、ここからどこへ向かおうとしているのか。まさに今、歴史は重大な時を迎えているのだ。

アフリカ系アメリカ人の作家でありフェミニストであるアリス・ウォーカーは、最近のインタビューの中で、極めてユニークな視点からオバマの大統領就任について発言している。ご存知の方もおられるだろうが、ホワイトハウスの建設は、元々アフリカ大陸から鎖につながれて連れてこられたアフリカ人の労働力を使って1792年に着工された。ウォーカーの言によると、ホワイトハウスを建設したアフリカ人の先祖は、当時の白人の大統領のためにではなく、将来の黒人の大統領のために身を粉にして働いたのだ。

「鎖につながれ、絶望あるいは悲哀にまみれて働いていた時でさえ、先祖たちは来るべき黒人大統領のために建設していたのです。先祖たちは人生を極めて長いスパンで見ていて、その人たちにはやがて起きることが見えていたのです」とウォーカーはオバマの出現について述べている。「だから、オバマは先祖たちが実際に自分のためにホワイトハウスを建設していたのだと知るべきです。先祖たちには黒人大統領の出現が分かっていたのだから。そして今、現にオバマがいる。間もなくホワイトハウスの住人になる人として。これは、いうなれば魂の、そして信念によってしか生きることができなかった人々の大いなる勝利なのです。」

他ならぬオバマ —— その父親はアフリカのケニア出身 —— は今、おそらく政治的に世界最強の権力をもつ地位に就こうとしている。ようやく、心待ちにしていた黒人の大統領をホワイトハウスに迎えることができ、先祖たちはどこかで、ともかくも、満面に笑みをたたえているに違いない。アフリカ系アメリカ人にとっては、とてつもなく長い苦脚の道のりだった。そして、オバマが今後何を実行しようとも歴史にその足跡が刻まれることは確かだ。

二つ目の重要ニュースは何か見当がつくだろうか。それはアフリ力系女性歌手、ミリアム・マケバの死だ。マケバは昨年11月にイタリアで亡くなった。オバマの選出が時代の始まりのしるしだとするならば、マケバの死は時代の終わりのしるしだ。オバマをホワイトハウスの大統領の椅子に座らせる一助となったのは、マケバが生きた時代なのである。

アバルトヘイトの年月

ミリアム・マケバは、1932年、南アフリカ共和国のヨハネスブルグで生れた。母親はアフリカ人のサンゴマ(霊的治療家)だった。ミリアムは冷酷な人種隔離政策の初期に成長期を過ごした。白人が統治する南ア政府は、第二次世界大戦の戦後3年目に当たる1948年に始まったこの政策を「apartheid (アパルトヘイト)」と呼んだ。幼少期から歌の才能があったミリアムは、20歲を超えた1950年代には、その甘いソウルフルな声でプロのミュージシャンとなっていた。1950年代、ミリアムは女性ボーカルグループ「ザ・スカイラークス」を率いるリーダーであった。当時、このグルーブは南アフリカで域も人気のある音楽バンドの一つに数えられていた。

1959年、ミリアム・マケバは南アフリカのジャズオペラ「キング・コング」に主演した。また、同年、アメリカの独立映画製作者が南アフリカで秘密裡に撮影した、反アパルトヘイトの映画にも主演した。マケバはこの映画が大ヒットしたイタリアのベニスで行なわれたプレミアに出席したがこの事実を知った南アフリカ政府は、マケバのパスポートを失効させ、帰国を許可しなかった。南アフリカに戻って母親の葬式に出席することさえ許されなかったのだ。後日、マケバはアフリ力系アメリカ人のカリプソシンガーであるハリー・ベラフォンテの支援を得て、米国への入国を果たした。ここで南アフリカの音楽が、マケバによって世界に初めて紹介されることとなった。米国社会そのものも、人種差別問題に直面していたころである。1962年、マケバはニューヨークのマディソンスクウェアガーデンで開かれた、ケネディ大統領の誕生日の祝賀会で歌った。1963年、マケバはニューヨークの国連本部において、南アフリカ政府のアパルトヘイト政策に反対する証言を行った。この後、南アフリカ政府は、マケバの市民権をも剥奪したのである。

1966年、マケバとベラフォンテとのデュエットのレコードを顕彰して、アメリカのグラミー賞が授与された。アフリカ人女性が同賞を受賞するのは初めてであった。また、翌年、マケバが歌う南アフリカで人気のあるダンス曲「パタ・パタ」が世界中でヒットした。「パタ・パタ」はその後の人生を通じて、マケバのテーマ曲となった。マケバは多くの歌手と同じく、恋に落ちたり失恋したりといった歌を持ち歌としていたが、そのユニークな点は世界のさまざまな言語で歌ったことであった。もちろんアフリカの色々な言語 —— とりわけ特徴のある舌打ち音が入る南アフリカのコサ語 —— も含まれていた。

そして、南アフリカの人々の強い社会的メッセージが込められた種々の「フリーダム・ソング(自由の歌)」を歌うことを決して躊躇しなかった。時が経つにつれ、マケバは南アフリカにおけるアパルトヘイトの残忍性に関し政治的発言を積極的に行うようになった。1968年にアメリカの急進派「ブラックパワー」の活動家と結婚したことなどの要因から、1960年代の終わり頃には、マケバのコンサートツアーやレコードの発売が中止されることが多くなった。今や、マケバは政治亡命者であると同時に技術亡命者として扱われるようになり、結局、アフリカのギニア共和国に住むようになった。

しかし、マケバは諦めなかった。私生活では多くの問題や苦難を抱えていたにもかかわらず、アパルトヘイトに反対する運動を決してやめようとはせず、人補差別に対しても反対の声を上げ続けた。

時を経て、マケバはアフリカ大陸の人々によって、最も情愛に満ちた呼び名といえる「ママ・アフリカ(母なるアフリカ)」を与えられた。アフリカの精神的母親として、マケバは南アフリカの人々ばかりか、アフリカ大陸全土の人々の希望を表象していた。アフリカ大陸ではヨーロッパの「ご主人様」を追い出し独立国を建設しつつあった。白人が支配権を握る南アフリカ政府は、何十年にもわたって、世界中の人々に愛され尊敬されていたにもかかわらず、マケバを無法者として扱った。また、マケバは南アフリカ政府により、多くの「banned (禁止された)」人物の一人とされていた。これは彼女の発言や音楽が南アフリカ国内で何年にもわたり大衆に公表されなかったことを意味する。一方、1986年、国連はギニア共和国の国連使節として反アパルトヘイト運動を行なったマケバの貢献をたたえ「ダグ・ハマーショルド平和賞」を授与した。

大阪のライブ

1980年代の後半か1990年代の初め頃、私はここ日本で「ママ・アフリカ」のライブコンサートを見る機会があった。大阪の西梅田にある小さなクラブだったが、その二階席からマケバを見つめた。かつて、ニューヨークのカーネギーホール、ロンドンのロイヤルアルバートホールのような超一流の舞台に立ったマケバほどの才能の持ち主が、大阪の繁華街にある、小さなあまりきれいとは言えないクラブに出演していた。それは驚きだった。今でもその驚きがよみがえる。人種差別というものが、南アフリカやアメリカだけに限られたものではなかったということだろう。

それは素晴らしいセッションだった。そして、終わりに皆がアンコールを求めた。マケバはこれに応え、数曲も歌ってくれたと記憶している。私たちはマケバと一緒にこぶしを高く挙げ、萵揚した気分でアフリカの魂とアフリカの民に敬意を表し、南アフリカの国歌「Nkosi Sikelel’ iAfrika、ンコシ・シケレリ・アフリカ(アフリカに神の祝福あれ)」—— 元々は南アフリカ生れの黒人作曲により1897年に作られた、心をかき立てられる曲 —— を合唱した。

マケバの大阪でのライブハウスは、おそらく、それまで私が行った中で一番狭いものだったであろう。しかし、私にとっては忘れがたいコンサートであった。多くの民俗学者はこう言う。地球上の人類は皆そのルーツをアフリカ大陸に持つ、ゆえに、本質的に「われわれは全員アフリカ人」なのであると。もしこの説を受け入れるならば(私は受け入れている)、あの夕べ、大阪の小さなクラブに居合わせた多様な人種と国籍の客たちが「ママ・アフリカ」は紛れもなく自分自身のママだと言えることを、いかに誇りに感じたかを理解していただけるだろう。

2005年、73歳のマケバは生まれ故郷である南アフリ力のヨハネスブルグを起点にさよならコンサートツアーを開始した。これまで人生の中で訪れた各国をすベて巡って、皆にお別れを告げたいのだと言って。

最後のお別れ、新しい始まり

マケバはそれから3年後もまだ、さよならコンサートツアーを続けていた。ところが、マケバが心臟発作で2008年11月10日、イタリアでのチャリティコンサート会場で倒れたというニュースを聞き、私を含めた世界中のマケバの「子供たち」は、大きなショックを受けた。(当時マケバはベルギー在住)マケバはほどなくしてイタリアの病院で亡くなった。享年76歲、文字通り、歌いながら亡くなったのだ。いまわの際まで人々に自分の声を届かせながら。イタリアはマケバが世界に最後の別れを告げるのにもっとも相応しい場所だったかもしれない。半世紀前、アパルトヘイトの時代に 国際舞台を初めて踏んだのがイタリアだったからだ。

マケバの遺体は南アフリカの地に運ばれ、心のこもった追悼式と葬儀が執り行われた。多くの人が哀悼の意を表したが、日本を含めた各国で、マケバの死は小さく報じられただけだった。そしてメディアは、例によって他のホットなニュースに飛びついた。

2008年5月、死の半年ほど前、マケバはイギリスのある新聞社のインタビューを受けている。これが生涯最後のインタビューと考えられているが、ここで次のように語っていた。「私は政治的な歌手ではありません。政治的な歌手というのが何を意味するのか分かりません。人々は私が意識して、南アフリカで起きていたことを世界に知らしめようとしたと思っています。とんでもない。私は自分の人生を歌っていたのです。南アフリカでは、私たちはいつでも自分たちの身に起こっていること、とりわけ私たちを苦しめる事柄を歌にしていたものです」

苦しみの多かった長い人生の途上で、マケバは30年以上にもわたって祖国へ帰ることができず、祖国の人々に会うこともままならなかった。その間、ミリアム・マケバは世界の多くの変化を目擊した。マケバの祖国は、1994年、アフリカの息子であるネルソン・マンデラを、初の黒人大統領として獲得した。そして、マンデラ自らが、あの待ち望まれていた祝いの席にマケバを招待したのだった。昨年11月、死の1週間ほど前、マケバはアフリカのもう一人の息子が黒人の大統領として現れるのを知ることができた。今回は海を隔てたアメリカ合衆国である。バラク・オバマは1961生まれ。1961年といえば、若き日のマケバが祖国南アフリカへの帰還を禁止され、アメリカ合衆国で亡命者となった頃であった。

今、一人のアフリカの息子が、自分の先祖が建設したワシントンDCのハウスに住まうべく立ち上がった。時を同じくして、一人の母の声と肉体は眠りにつき、歴史のこの時点にオバマを出現させた先祖がいる世界へと旅立っていった。人がオバマのことをどのように思おうが、アメリカ内外のミリアム・マケバその他のアフリカ人の先祖の勇敢な闘いなくしては、オバマは決して今立っている場所に居るはずはないのだ。先祖たちはこれまで数十年にわたり、自らが信じるより良い世界のために、愛する人や仕事を失う危険を冒し、そして、まさに命さえかけて闘ってきた。

以上の締め括りに多くの言葉は不要だ。オバマ大統領へ —— 力の限りを尽くしてほしい。世界中の人々が、将来に対する大きな期待を抱きつつあなたに注目している。そして、ママ・マケバへ —— あなたが住むあの世の先祖は、喜びにあふれてあなたの帰還を歓迎しています。心おきなく安らかにお眠りください。ホワイトハウスはあなたのハウスでもあるのです。