語り部たちへのオマージュ
ブライアン・コバート
民衆の声 オデッタ
前回の冬号で私は南アフリカの歌手ミリアム•マケバに賛辞を贈りました。そして、現在バラク•オバマがアメリカ合衆国で史上初のアフリカ系アメリ力人として大統領の立場にあるのは、マケバのような人たちがいたお陰であると記しました。ところが、この話には大切なあとがきが付くのです。
ちょうどミリアム•マケバについて書いていた時、マケバと同時代のある有名な歌手が逝去したというニュースが入ってきました。その女性は、故マーティン•ルーサー•キング•ジュニア牧師によって「アメリカフォーク音楽の女王」と称されたことがあり、1950年代と1960年代のアメリカ合衆国では広く「公民権運動の声」として知られていました。ステージでは、ファーストネームのオデッタで通っていました。
ミリアム・マケバがアフリカ音楽を世界に知らしめることに一役買ったならば、同時期、オデッタはアメリカにルーツをもつ音楽を世界にもたらしました。私は毎回この欄で亡くなった方に哀悼の意を表するつもりはありません。けれどもオデッタの生きた時代に、音楽界と人権に対するその影響力が余りにも大きかったので、ここで触れずにはおれないのです。
オデッタは1930年アメリカ南部アラバマ州生まれ。のちにカリフォルニアに移り、そこで西海岸のフォークソングの潮流に乗りました。ほどなくして、その力強い、地の底から這いのぼって来るような深みのある声で国中の注目を浴びました。小さなクラブやフォークフェスティバル、教会であろうが、あるいはニューヨークのカーネギーホールのような大舞台であろうが、オデッタは必ず聴衆をとりこにしました。特に初期の頃には、アコースティックギターを片手にスポットライトのもと独りで舞台に立つことが度々ありました。ギターさえも使わず本人が「最初の楽器」と呼んでいた、手拍子と声だけのこともありました。
ああ、その声の何というひびき。オデッタの声域は広くはなく、たいていは中音ないし低音の音域で歌いました。それでも、音節の一つひとつに情感が込められているのです。つるはしが岩を打つ音を真似るときも、囚人や母のない子の寂しさを表現するときも物語に命を吹き込むことのできる声をオデッタはもっており物語を効果的に聴衆に伝えました。
オデッタの曲の多くは作曲家不詳の「伝承歌」でアメリカ合衆国のアフリカ系アメリ力人の豊かな歴史にその源がありました。たとえば、労働歌、囚人歌、ブルース、ゴスペルソングなどです。オデッタは自分の持ち歌を「liberation songs」(解放歌)と呼びました。それは、こうした歌がいわゆる自由と民主主義の国でなおも続く人々の苦闘から生まれたものだったからです。
オデッタは1960年代の公民権運動のメンバーになったが不満だったと言ったことがあります。活動家たちの様々なエゴと内部抗争を目にしたからです。それで組織とはきっぱり距離を置き、求められたときには歌手として務めを果たすことにしたのです。総じて「公民権運動の声」として知られるようになったのはこの賢い決断によるところが大だったでしょう。こうして1963年8月28日、オデッタはワシントンDCで歴史的な「ワシントン大行進」に参加した数十万人もの人々の前で歌うことになりました。キング牧師があの有名な「私には夢がある」のスピーチを行なった場所です。
ボブ•ディラン、ジョーン•バエズ、ジャニス•ジョプリンら、若き白人ミュージシャンが熱心にオデッタに追随しました。オデッタはこうしたミュージシャンに強烈なインスピレーションを与えただけでなく、時としてその師でもありました。もちろん、そのこと自体はまことに結構ですが、深いところに根ざしたオデッタの「リベレーション•ソング」とは似ても似つかない、往々にして上辺だけで内容の乏しい「プロテストソング」を歌って富と名声を手にした白人フォークシンガーが多くいたことも事実です。
オデッタは日本でもよく知られていたようです。1960年代の半ばには東京でライブアルバム(いまだにCDにはなっていないので、LPレコード収集家のコレクターアイタム)のレコーディングをしています。アメリカのフォークシンガーたちと同様に、1960年代の日本のフォークシンガーの多くも直接間接にオデッタから大きな影響を受けたといっても過言ではないでしょう。
日本といえば、今回オデッタのことを書きたかったのは別の理由があったからです。日本で社会変革のために活動している私たちにとって、オデッタは多くの貴重な教訓を示してくれているのです。社会運動における芸術、わけても歌の役割という点からみて、オデッタは良いお手本です。社会変革を推し進めて成功した世界の国々——南アフリカ、チリそしてアメリカ合衆国がすぐに思い浮かびます——これらの国において勝ち目がないと思われることに対して人々を鼓舞し社会連動を推し進めるに際し、その要のひとつに音楽がありました。
百の政治演説より心からの1曲の方が多くの人を感動させ得ると言われます。その通りだと思います。憲法第九条を改正して自衛隊の海外派遣をしやすくすべきかどうかについての国民投票実施までわずか1年となった今、あくまで憲法第九条の保持を望む私たちは、次のようなことを自問してはどうでしょう。日本にいる人の最大多数を護憲の方向へと短期間に動かすための強力な手段として音楽をどのように使えるだろうか。政治集会で音楽を単に余興として使うのではなくして、憲法第九条の全国的な護憲運動の中心に歌手と歌を据えることが、どうしたらできるだろうかと。日本にいる私たちは、オデッタのなかにこうした問いへの答を見出せるのではないでしょうか。
長年にわたりオデッタは、歌うことを決して止めませんでした。そして、一般の人々やアーテイスト仲間たちの、オデッタに向けた敬意も薄れることはありませんでした。数十年前にオデッタが影響を与えた多くの白人フォークシンガーとは違い、オデッタの歌は、アメリカの「トップ40」や「ホット100」のヒットチヤー卜には一度も入りませんでした。オデッタの歌は、もっと重要なところで歌われていたのです。数え切れない人々の心の中で。オデッタの歌を聴いた人々は、それぞれの仕方で社会の変革を求めて行動を起こしました。オデッタ自身は政治的歌手ではありませんでしたが、その歌手歴を通して「声なき民の声」であり続けました。オデッタは、よき市民アーティストの理想の姿です。
オデッタはオバマ大統領の1月の就任式で歌う予定だったと言われています。しかし、突然の病でその1ヶ月前に入院しました。マネジャーによれば病室のオデッタは、オバマ氏の大きなポスターをベッドの向かいの壁に貼り、初のアフリカ系アメリ力人大統領の就任式で歌うつもりでいたそうです。不幸にもそれは叶いませんでした。2008年12月2日、77歲で永眠。オデッタは今だ若きアメリカ合衆国の歴史と社会闘争に彩られた物語の最高の語り部という遺産を後に残して亡くなりました。
オデッタは数年前、自分の歌について次のように語っています。「こうした歌は苦しい時代に生れます。苦しい時代はまだ終わっていないので、今でも歌われているのです」と。私たちにはこれからも変わらず人の心を揺さぶる音楽があると思うと、元気づけられます。語り部と歌とは、春を告げる祝祭のように、この地球上で悠久の歴史をもっています。願わくば、語り部たちと語り部たちが私たちに与えてくれる命の贈り物に対し、これからも永きにわたって敬意を表し続けたいものです。
ともかく、読者の皆さん、日本、アメリカその他の国で、肩にアコースティックギターを掛け、世界のさまざまな喜びや悲惨を熱唱するフォークシンガーに出会ったならば、ひとつだけ思い出す必要があるのは、
それはオデッタです。