一語一語に思いをこめて

〜五十路を迎えたあるライターの省察守


ブライアン・コバート


今年はじめ、私は50歳になりました。半世紀という区切りは人生で一度しか巡ってきません。これまでの人生の過半を物書きとして過ごしてきたので、ここで一息入れ、少し振り返ってみるのもよさそうです。

なぜ書くか

ものを書く理由は、世界中の物書きの数だけあります。私の場合、物書きとしてのレゾンデートル(存在理由)を一語で要約するならば「サバイバル」です。この意味では、希望を見出せず絶望の淵にあると感じている色々な国や文化を背景とする人々と同じだと感じています。そして、ちょうど難破船から投げ出された人が大洋で救命具にしがみつくように、執筆にしがみついています。つまり、書くことにより水上に頭を出していられ、容赦ない人生の荒波に遭っても溺れないでいられるのです。そして、陸地にたどり着けるほど幸運なときは、また執筆に助けられるのです。私の場合は、これまでまさにそうでした。

私について言えば、沈没船は自分が育った家庭です。今どきの専門家なら「機能不全家庭」と呼ぶような家に生まれました。子供ならもっと簡単な言葉で形容します。「地獄」です。アルコール中毒、暴力、ギャンブル、育児放棄−私の父も母も、多かれ少なかれこうした悪癖にふけっていました。経済的にも感情的にも、私には、自分自身と二人の弟の暮らしをなんとかする力もないという思いがあり、反抗の声をあげることも狂気を止めさせることもできませんでした。想像ですが、自分が始めたのではない戦争に巻き込まれた一般市民はこういう感情を抱くのではないかと思います。

この時期は、幼い私に深い傷を残し、そしてティーンエージャーになってからは、何とかこの世の中を理解しようとしてもがいていたと言えば十分でしょう。どんな子供にもあの地獄は経験してほしくはありません。ただし、私の場合思いがけない効果がありました。つまり、この経験により私は社会で抑圧されている人々、無力であると感じている人々の側にはっきりと立つようになりました。そして、そのことが私を物書きとしての人生へと導いたのです。はじめは詩や散文などを書いていましたが、その後、ジャーナリズムの世界で意見を発信する機会に恵まれました。

声なき人々の声

最初のころの仕事でひとつ忘れられないことがあります。カリフォルニア州の小さな新聞の記者として行ったインタビューです。ある日のこと、地元の病院に入院中の中年男性を訪れ、ベッドわきで話を聞きました。その男性は重い口を開いて、数年前にアメリカとカナダの国境近くの原子力発電所で働いていたときのことを話してくれました。私が覚えている限りでは、話の内容はある日その原発で事故が発生し、危機一髪のところで全面的なメルトダウン(炉心溶融:原発で最悪の事故)を免れたということでした。幸い大惨事には至らなかったものの、放射能は国境の両側の大気を汚染し、発電所の労働者の中には事故を防ごうとして被爆した人がいたとのことです。その男性自身は、明らかに治る見込みのないガンと闘っていました。

私は、その男性に国はこのスキャンダルをいつまで隠しおおせると思うかと尋ねました。その答えを今でも覚えています。男性がインタビューの中で笑ったのはこのときだけでした。「永遠だよ」米国とカナダの政府は事故が絶対に公にならないようにするだろう、と男性は言いました。両政府の官僚はこの事故の詳細を完全に把握しているにもかかわらず、それを隠し、国民に知らせず国家機密として扱おうとしていました。駆け出しの若い記者だった私は、その男性の話を聞きながら、正直なところ興奮を禁じえませんでした。これは一大スクープだ、もっと調査しなければ。うちの新聞で報道したら、他のメディアにも広がるかもしれない。

しかし、取材を突然命じた主幹が、同じように突然その取材の中止-を命じました。主幹はある日私に、その取材を出め、何か別のものを取材するよう言いました。理由は分からずじまいで、その男性には二度と会うこともありませんでした。あの原発労働者の面影とその死の床での証言にも等しい言葉は、その後ずっと私の脳裏を去ることがありません。

このころほかにも、私の指針となったものと出会いました。「声なき人々に声を」という理念です。この理念は若い記者であった私にとっては革命的なものでした。わがことのように感じたのは当然のことでした。取材するにあたって「声なき人々に声を」を口にするジャーナリストは多いです。しかし、実行するジャーナリストは多くはありません。その後ずっと私の指針であったものがあるとするならば、それは社会が存在そのものを無視あるいは拒絶しようとする声なき人々の実情を明るみに出すことでした。私は常にこの指針にできる限り沿って仕事をしようと心がけてきました。

あの癒しの感情

私は早いうちから、特定の分野を専門にするのでなく、境界や障壁(見えるものも見えないものも)を超えて書いてみようと決めていました。

英語の言い回しに「多芸は無芸」というのがあります。この言い回しは過去数十年間の私の書くものを実によく言い当てています。自分の得意分野を見いだしてそれに固執するジャーナリストやライターは数多くいます。何年にもわたって同じスタイルで同じ話題について書き、けっして変化も成長もしません。「快適ゾーン」から出てこようとしないのです。しかし、私はライターの真の強みは、チャンスに賭ける勇気があること、たびたび快適ゾーンから離れること、オープンな心を保つこと、技量を色々な方向に伸ばすことにあるといつも思ってきました。ビジネスの言い方をするならば、たとえ視聴率が下がっても、つまり読者を失う危険があったとしてもです。

この何十年間を振り返ると「文豪」ならいたためれないほど、雑多なスタイルとジャンルで執筆をしてきました。つまり、詩、散文、硬いニュース報道(あらゆる分野)、ひょうろん、論説文、身辺雑記、学術文、教科書、コピーライト、スピーチ原稿などなどです。それでもなお、ジャーナリスト兼詩人として今なお、執筆活動ができるのは本当にうれしいことです。なんとかサバイバルしつつ、同時に仕事の展望を広げることができました。

書くことの別の面にも触れておきましょう。癒しの側面です。これは、歳を重ねるほどに感じるようになりました。話し言葉であれ書き言葉であれ、言葉の持つ癒しの力はあまりにも過小評価されています。

この教訓は、1999年に詩集『命』を自費出版した後にはっきりと気づきました。最近、近親者を亡くされた何人の方から、悲しみのときにこの本が立ち直るきっかけをくれた、と言われました。この本にそのような力があると思うこともなければ、そのような結果を意図してもいませんでした。しかし、どういうわけか自分の個人的なサバイバル航海の途上で、私の言葉が他の人の航海の助けになっていたのです。ですから、傷つけるか癒すか、創造するか破壊するか、私たちは言葉の力を軽んじるべきではありません。文字通り、一語一語が実にものをいうのです。

一語一語に思いをこめて

人は誰でも世界に与える何かをもっていて、一人ひとりがこの地球上の人類と自然という「ひとつの家族」のかけがえのない一員であると、私は信じています。私は個人にせよ集団にせよ「ピープルパワー」を強く信じています。ピープルパワーは抑圧的になりがちな権力から身をかわし、持続可能な社会・世界に生きるために必要な変化を自分たちで作り出す力となります。たとえ、どれほどわずかでも、私としては書いた言葉によって世界を少しでもより良くしたいと考えます。考えが甘い、あるいは傲慢、ひとりよがりだと思われるかもしれません。しかし、人生の後半においては、以前にもまして、自分の書く一語一語が社会そして世界の中でポジティブな思いを伝えるものとなるようにと、心から願っています。

偉大なフォトジャーナリストであった故 W・ユージン・スミスは、今ではフォトエッセーといわれるジャンルの先駆者で、かつてこう言いました。「・・・私はいつも、事実の記録者であるジャーナリストの態度と、事夷と対立せざるを得ないアーティストとの間で引き裂かれる。私の主眼は誠実さにある、とりわけ自分に誠実になることに・・・』。他人に対して、そして自分にも誠実であることは、また物書きのあるべき姿でもあります。

これまでの50年間を振り返ると、あの暗く過酷な幼年期は、ありがたいことにはるか昔のことになりました。遠いぼんやりした記憶が時間の霧の中に残っているだけです。しかし、大いなる「グローバリゼーシヨン」の嘘のもとで、世界は多くの面で、当時よりもっと多くの人々にとって、はるかに過酷な埸所になっています。そこには、依然として多くの届けられるべき声があり、語られるべき話があります。あの原子力発電所の労働者のように、私たちの周りには多くの人たちがいて、いまだ語られていない話が沈黙の中でさまよっています。

このエッセイでは、あらためて、本当の意味での物書きとして、もう書き続けることができなくなる日まで全力で書いていくことを心に決めました。将来は、無論、誰にも予見できません。けれども、私は「命」に感謝します。そして、この先まだまだ多くの時間があり、書いたものを発表していくことができるよう願うばかりです。