「生きていくだけで、忙しすぎる・・・」


ブライアン・コバート

日本をベースに活動するジャーナリスト、ライターとして、問題意識を持つ市民として、またなによりも皆さんと同じ人間として、このサイトでは、私の仕事、 社会活動や趣味などを紹介していきたいと思います。

多くの人にとって、自分自身や生活の一部を他の部分と完全に別にしておくのは、きわめて自然なことです。 しかし、私の場合は、自分の様々な面がそれぞれ調和をもって共存できる場所が欲しかった。したがって、ここではジャーナリストとしてのマスコミ関係の仕事のほかに、私の詩人としての一面、社会活動家としての一面、写真家としての一面、その他、あらゆることに対する関心もご覧いただこうと思います。この「命」 のホームページは、真の意味で私の「ホーム」になるはずです。

命とは何か

もう長いこと「命」という漢字が気に入っている。少ない画数でありながら、力強さを伝える文字だと思います。 家族とともに住んでいた兵庫県西宮市で、1995年、あの阪神大震災に見舞われてからというもの、だれもが当たり前だと思っている生と死という基本的な問題をよく考えるようになりました。命とは何か。自分の命も他の人の命も、決して当たり前のものと思うことなく、一瞬一瞬をどう生きるべきか。 10年前くらいから、こういうことを真剣に考えるようになりました。当時「命」とは何かという問いが軽んじられていることを感じ、今後もこの傾向が良い方向に向かうとは到底思えなかったからです。

10年が過ぎ、状況がここまで悪くなっているのを目の当たりにしています。最近では、家庭や学校その他で繰り広げられる恐ろしい暴力がニュースにならない日はありません。国どうしの関係でも同じことで、不要な戦争が世界中で起きている。私たち人間は、生きていくうえで最も尊いもの「命」そのものーとのかかわりを急速になくしつつあります。

そこで数年前『命』というタイトルの詩集を自費出版しました(このサイトの「詩集」のページを参照)。 私自身、命の尊さにいま一度思いを馳せ、また他の人にもこれを伝えようとしたのです。 赤い円の中に「命」と入れた新しい名刺もわざわざ印刷しました。もちろんこれは、この題名の詩集の宣伝にしようという魂胆でした(笑)。とはいえ私は、名刺を受取った人に、この「命」のしるしは何だろうという疑問が芽生えるだろうと思っていました。そして、 私が出会ったひとりひとりがその疑問を考えるうちに、「命」について、自分にとって「命」とは何かについて、ひょっとしたら、これまでよりほんのわずかでも時間を取って考えてくれるのではないかと期待していたのです。

以前に大阪の豊中で講演をした際に、この新しい詩集も紹介しました。詩集と名刺に対する反応は、たしかに人それぞれでしたが、とりわけ考えさせられたのは、ひとりの中年の女性の言葉でした。いかにも大阪人らしいこの人は、生きていくだけで忙しすぎて「命」についてまじめに考えるヒマはないと言ったのでした。最初私は、例の吉本興業ふうのユーモアで、また冗談が出たのかと思いました。しかし、ふと気づくと、女性はこれっぽっちもふざけてはいなかったのです。

「生きていくだけで忙しすぎて、命について考えるヒマはない」というこの人の言葉を私は何年にもわたり反すうしてきました。日本国内でも国外でも、どれだけの人が同じように感じていることでしょう。しかし、考えれば考えるほど、これは筋が通っていないと思われました。つまり、「運転が忙しすぎて周りの車のことを考えるヒマはない」とか「公園を歩くのに忙しすぎてそこに生えている樹を見ているヒマはない」とか 「勉強(仕事)が忙しすぎて学校(会社)のことは考えているヒマはない」とか言っているのと同じことではないかでしょうか。「生きていくだけで忙しすぎて、命について考えるヒマはない」には、なんらかの重大な矛盾が含まれています。ますます問題山積の現代において、私たちは皆、これを機会に立ち止まって考えてみなければなりません。

そこで、忙しすぎる生活の中でいかに命を生きるかについて、私なりの考えを示そうと開設したのがこのサイトです。私たちの「忙しい生活」の面は認めて尊重したいと思います。それと同時に忘れてはならないことがあります。この「忙しい生活」の面はすべて、はるかに大きくすばらしい全体の一部なのです。言ってみれば、人類家族全員が「命」という名のひとつ屋根の下にともに在るようなものです。

読者の皆さん、いかがでしたか。あなたにとって「命」とは。「命」の話題に関するお考えをメールでお寄せください(メール送信は下記)。このサイトとその内容に関するご感想、そして、フィードバックと建設的なご批判も大いに歓迎します。ご訪問ありがとうございました。サイトの一部を見事に翻訳してくれた川井孝子さんに特に感謝します。